1. 安息日
劇場にひしめきあった人々は皆、闇のなかに浮かぶ舞台を見つめている。
湾曲した壁面に、ぐるりと三階建ての客席のついた豪奢な劇場、その中央部分は吹き抜けになっており、高い天井に歌声が昇っては満ちていく。演者の低音の響きは空気を震わせ、吊り下げられた多灯器具の炎が、幾度もたやすく揺らめいた。
おぼろげな灯りを一身に受けた舞台上の演者は、頬に、伏せたまぶたの下に、衣装のひだに濃密な影をまとわせて、一心不乱に歌い続ける。長い手を天に差し伸べて、全身から感情をほとばしらせて。仄灯りの下で濡れた肌がぬらりと光り、躍動に合わせて珠の汗が散った。
──なにかが、とりついているみたい。
恐れに似た気持ちが胸を絞めつける。遠く離れた二階席にまで熱気が伝わってきて、エリーシャはこくんと生唾を飲みこんだ。まばたきを忘れて舞台を見つめ、もう長いあいだ欄干を握って立ちつくしている。うるんだ紅玉の眼に、小さな照明の火が映っては、ちらちらと躍った。
物語は、主人公である男が信念を通すために、あらゆる苦難を覚悟すべきだと自らに言い聞かせる、ひとつの山場を迎えていた。男は感情を剥き出しにして、身をよじり、もがき苦しみながら己を鼓舞する。
楽団が奏でる音楽が、演者の声に合わせて激しさを増して──演奏が突然途切れた。男がひとつ大きく足を踏み鳴らし、声の限りに叫ぶ。
──その日を摘め 。
劇場の外は群青に染まっていた。日没後、空のふちがうっすらと夕陽の色に染め残っていて、街を行き交う人々はみな、薄紫色の影をまとう。
観劇のあいだに一雨通り過ぎたのか、石畳は濃く濡れそぼっていた。そこに晩秋らしく、街路樹のプラタナスから落ちた黄金 の枯れ葉が吹き寄せられている。雨に濡れたせいで腐葉土のような匂いがわだかまり、スヴェートの街全体に漂っていた。
「どう? 楽しんでもらえたかしら」
隣を歩くユーゼに顔を覗き込まれて、ぼうっとしていたエリーシャは、はたと我に返った。夜を渡る風がしっとりとまとわりついて、熱っぽい頬を冷やしていくのが心地よい。知らず詰めていた息をほうっと吐いて、ユーゼを見上げる。
「……すごかった」
胸のなかでは濃密な感情がせめぎあっているのに、いざ外に現そうとしたら、そんな端的な感想しか出てこない。あんなに舞台の上で息づく熱に、圧倒されたのに。
けれどユーゼは満足そうに、エリーシャに微笑みを返した。
「分かるわ。初めての観劇のあと、私もそうだった。ものすごい夢から覚めきれずにいるみたいに、足元がふわふわしておぼつかないのよね」
「エリーシャはまだマシだ。あの時の姉さんなんか、俺が呼びかけても上の空で、返事ひとつしなかった」
「……もう、スキア!」
ユーゼが弟を軽くにらむ。姉弟の視線が交わると、互いに顔を見合わせて、どちらともなく笑みをこぼした。
「懐かしいわね。騎士に叙任してすぐの頃だった」
もともと観劇は、王族や貴族、騎士といった特権階級にのみ許されていた娯楽だ。それを平民も楽しめるようになったのは、ごく最近のこと。王制が滅んで民主国家となり、民が政 を担 いはじめた今、あらゆる制度が少しずつ変わり始めている。
観劇の際には正装をするという決まりごとも、もはや過去のものになりつつあった。いまエリーシャと一緒に劇場を出たユーゼとスキアも、騎士の鎧や執務服ではなく、休日らしく簡素な服を身にまとっている。
三人は宵に濡れた街をゆるやかな足取りで歩いた。水はけの悪い路地のそこかしこに水溜りができて、群青色に染まった建物や、橙のともしびが揺れる外灯を逆さに映している。ぱしゃりと靴で水を割ると波紋が広がり、虚像がゆらゆらと揺れた。
陽が暮れたにも関わらず、いや、夜になって勢いが増したのか、スヴェートの目抜き通りは混雑していた。飲食をまかなう店から陽気な笑い声が響き、雑踏の喧騒にまぎれる。
行きかう人たちにぶつからないよう、騎士二人とはぐれないよう、歩くことに専念していたエリーシャだったが、ふと景色に見覚えがあることに気付き「あ」と声を漏らした。ふわふわした頭のまま劇場からここまで来たけれど、ユーゼとスキアがどこに向かっているのか思い当たる。
「エリーシャ?」
ユーゼとスキアが不思議そうに振り返った。
その時エリーシャの胸に去来したもの──雨の夜に傘をさして、彼とふたりこの道を歩いた思い出──を振り払うように、彼女は勢いよくかぶりをふった。「なんでもない」と言い切って、立ち止まった二人を小走りで追いかける。
彼女の予想通り、ユーゼとスキアが目指していたのは酒場だった。スキアが分厚い扉を開けると、飴色の灯りや人々の笑い声、こもっていた熱気が押し寄せる。
「やぁ、いらっしゃい。……と、なんだ君たちか。いつぶりかな」
「ひさしぶりね、フランク。ずいぶん繁盛してるみたいだけど、入れる?」
「もちろん。奥の席が空いてるよ」
彼は緩慢にあごを動かして、なかに入るようにうながした。
騎士二人に続いてエリーシャが店内に入り、フランクのいる壁際を見ると、彼と目が合った。彼のアイスブルーの虹彩が、一瞬引き絞られて──けれどかすかに覗いた驚きは、すぐに余裕ありげな微笑に塗り潰される。
「なんだ、小娘も一緒か。ここはお前みたいなお子様が来るところじゃないよ」
「……うるさい。わたしの勝手でしょ」
ふん、と小さく鼻を鳴らしてエリーシャがそっぽを向く。いつもの応酬。でも本当は、互いにいつもと違う気持ちが灯っているのを知っている。すこし前に、エリーシャが告げた言葉が火種となって。
不機嫌に眉根を寄せながらも、胸がとくとくと震えるのを感じる。速まった鼓動をフランクに悟られないよう、さっと視線を外して店の奥に急いだ。
(くやしい)
大人はいつだって隠しごとが上手い。あの朝、気持ちを伝えた時は、フランクだって少なからず動揺したくせに。
窓から白い陽射しが差し込んでいた。すこし濡れた朽葉色の髪が、やわらかく照らされるさまを思い出す。編み込んでひとつに束ねた長い髪が、彼の身じろぎに合わせてかすかに揺れていた。骨ばった大きな手がゆるやかにカップをたぐり、持ち手に長い指をかける。わずかに赤らんだかたちのいい耳、褐色を帯びた肌、するどくなめらかな頬の輪郭。透けそうに薄い色の瞳を逸らして、それでも彼の唇から初めて紡がれた名前。「エリーシャ」──告げた想いに応えるように、低く、すこしあまい調子で。
「~っ!」
思い出した光景にかあっと顔が熱くなって、うめき声が漏れた。行き場のない恥ずかしさにまかせて、目の前の椅子を蹴飛ばしてしまいたくなる。こぶしをかためてふるふると身を震わせていると、スキアが「そんなにフランクの店に入るのが嫌だったのか? お前ら本当に仲が悪いな」と見当違いなことを言った。腹立ちまぎれに大きくうなずく。
「エリーシャったら。そんなことないでしょ?」
ユーゼににこりと微笑まれて、エリーシャは一瞬言葉に詰まった。何かを言いかけてやめて、また何かを言いかけてやめて、はぷはぷと口を開け閉めする。
「……そんなことあるっ」
やっと否定の言葉が口から出た。それでもユーゼはすこし困ったように小首をかしげて、微笑みを絶やさない。
──ユーゼは知っているのだろうか。聡 い彼女のことだ、エリーシャとフランクの微妙な空気を読み取ったとしても不思議ではない。それともあるいは……。旅のさなかで互いに相談を持ちかけていた、ユーゼとフランクのすがたが脳裏に浮かぶ。
(ゴミクズのおしゃべり!)
エリーシャは八つ当たりするように勝手に決めつけて、心のなかでフランクをぽかぽかと殴った。
最奥の机を囲むと、ユーゼは二人に何を注文するかと聞いた。きっとエリーシャが困っていることに気付いて、話題を切り替えてくれたのだろう。ユーゼの機転と優しさに、ほっと息をつく。
これがフランクだったら、にやにや笑いながらその話題を続けてエリーシャを弄 ぶだろうし、もしレニだったら、エリーシャが困っていることに気付かず、にこにこしながらとんでもない発言をしてもおかしくない。ちなみにスキアは、いま水面下で交わされた機微にまったく気付いていない。
「ちょっと休んで、どこかで夕食を摂って帰りましょう。エリーシャは何が食べたい?」
接客の合間にフランクが手早く運んだ紅茶と果糖煮 、それらを交互に味わいながらユーゼが尋ねた。エリーシャは口に運んでいた木苺の果実水 を卓に置く。
「ん……えっと……」
「遠慮しなくていいのよ、なんでも好きなものを言って。せっかくだもの」
視線を上げて好物を思い浮かべていたら、明るい声が被さった。その、いつにも増して快活なユーゼのそぶりが、エリーシャの胸に棘 のようにひっかかる。
──急に夢から覚める心地がした。
「……おねえちゃん」
ゆっくりと呼びかけて、杯から離した小さな手を膝に置く。卓の下で、スカートのすそをぎゅっと握りしめる。
「わたしなら、平気だから。大丈夫だよ」
そう言い切って唇を持ち上げて、笑みのかたちにむりやり曲げる。
浮かれていて気付かなかった。慰めじゃないと、こんなに素敵な一日はありえないことを。騎士団長になってから前にも増して忙しいユーゼと、騎士隊長のスキア。姉弟揃っての休日だって珍しいのに、そんな貴重な日に、エリーシャを観劇に招いてくれるなんて。三人でお茶をして、エリーシャの好きなものを食べに連れて行ってくれるなんて。
「……エリーシャ、それは違う」
「そうよ、誤解だわ。エリーシャを観劇に誘ったことと、旧体制派の人たちのことは関係ない。私たちはただ、せっかくレギアの村からスヴェートまで来てもらったんだから、この街を楽しんでほしいって思っただけ」
スキアとユーゼが真摯 なまなざしで言い募 る。
──この国をよりよいものに。きっとみんな思いは同じはずなのに、その道行きの違いが軋轢 を生んでしまう。特にユーゼたち新体制派が進める異種族和解は、旧体制派と呼ばれる王権時代の有力者たちに、なかなか受け入れてもらえずにいる。
種族や民族の違いには、どうしても差別や偏見がつきまとう。特にむかし人間 と争った、竜に姿を変える竜人族などはその最たるものだ。人間 と竜人族の混血であるエリーシャが、二種族の橋渡しへの第一歩として、顔見せに都城を訪ねても──旧体制派の人たちが開口一番、エリーシャを「バケモノ」と罵 るくらいには。
「会議がうまくいってたって、誘うつもりだった」
ユーゼがほそい肩を落としてうなだれた。
まわりの席の浮かれたざわめきが幾重にもかさなりあい、ひとつのうねりのように酒場のなかを席巻し、三人の卓の沈黙をも埋める。酒精の匂いが人の熱気と蜜蝋の灯りに炙られて、独特の濃密さを漂わせる。
エリーシャはうつむいて唇を噛んだ。せっかく楽しい雰囲気だったのに──卑屈な物言いのせいで、場が冷えてしまった。
どうして素直に好意を受け取れないのだろう。きっと、平気だなんてユーゼに言ったくせに、心の奥底にみじめな気持ちがあるせいだ。ユーゼのように強くなりたいのに、そうなれない自分が情けない。胸に靄 がわだかまって、重くつかえて、息もつけなくなる。
「なんだ、みんな押し黙って。ここに来るまで、嘆きの妖精 の立つ家でも見たのかい?」
その時、軽快な声が空気を割った。
三人が落ちていた視線を上げる。すると指で杯をぶらさげたフランクが、卓のすぐそばに立っていた。唇にうすい笑みを浮かべているものの、その水色の眼には、隠しきれない好奇の色が見てとれる。
「……まさか、縁起でもない。それよりフランク、ここにいていいのか? 接客や給仕で忙しいんじゃないのか」
スキアが問いかけると、フランクはくぐもった笑みを漏らした。持っていた杯に一度口をつけて、賑やかしい客の群れに視線をやる。
「彼らもだいぶできあがってきたからね。僕が一杯ずつ注 いでいくよりは、自分たちの裁量で飲んだ方が楽しいだろう」
彼の目線を追うと、いくつかある卓にはそれぞれ酒瓶が置かれていた。
つまりは手酌しろという訳だ。
「ずさんすぎないか? お前……」
「緩急 があると言ってほしいな、スキア。ここ最近ずっとこんな調子だ。泥酔した大勢の客を毎日まともに相手していたら、僕の方がまいってしまう」
「うそつき。体力おばけのくせに」
エリーシャの入れた横やりにも、フランクは素知らぬ顔を通した。彼はただ給仕のために、こまごまと動き回るのが面倒なだけなのだろう。
酔いのまわった客らを眺めていたユーゼが、はたと気付いて声を上げる。
「ああ、そういえばもうすぐ謝肉祭 なのね。すっかり忘れてたけど」
「そういうこと。気の早い連中が、すこし早めに羽目を外してるって訳だ。まぁ、どうせ謝肉祭 のあと、いつも僕は店を閉めるからね。せいぜい今のうちに稼がせてもらうさ」
初雪が降るころに復活したとされる救い主 。その復活の記念日を祝う復活祭 の前に、節食・禁欲・祈りの期間とされる大斎期 がある。大斎期 の前に栄養のあるものを食いだめし、乱痴気騒ぎが許されるのが謝肉祭 だ。
「まぁ大斎期 に店を開けてても、酒場には誰もこないしな……。それで? いつもどうやって長い休暇を過ごしてるんだ?」
「いい機会だからスヴェートを出て、あちこち見てまわってるよ。巡礼の旅を装 えば角が立たないしね」
特定の信仰を持たない、彼らしい答えだった。
ふとエリーシャは視線を感じて、フランクの方を見た。彼女の炎の色と、彼の水の色のまなざしが交わったのは、ほんの一瞬のことで──ふいと視線をそらしたフランクが、スキアとユーゼに向かって唇を開く。
「今年は綺麗な景色を見るために、旅に出ようかと思ってる」
(──あ)
彼のその一言で、エリーシャはさきほどの目配せの意味を知った。
あの朝フランクは「ルーヴの花畑をもう一度見たい」と言った。今度は宵に紛れてではなく、明るい陽射しのもとで景色を眺めたいと、そうエリーシャに告げた。
あれきり音沙汰がなかったけれど、つまりは大斎期 に、花畑のあるレギアの村へ──エリーシャの住む村へ行く。さっきのはそういう暗喩 だろう。
じわりと顔に熱が昇りそうで、あわてて目線をフランクの横顔から剥 がす。彼の目当てが花畑だけでないと思うのは、うぬぼれが過ぎるだろうか。
「はぁ……フランクは気楽でいいな。俺たちは例年通り、救い主 に倣 って節制だ」
「まあまあスキア。フランクが忙しく働く謝肉祭 に、私たちは自由を謳歌できるんだから」
「そうそう。すべては天秤の皿の上、ってね。均衡 は自然と取れるものさ」
三人はくつろいだ様子で軽口を交わす。フランクは空になった杯を卓に預けた。濃い酒精の匂いが立ちのぼって、そういえば彼は底なし だったと、エリーシャは思い出す。普段とまったく変わりがないように見えるけれど、それなりに酔っているのだろうか。
「君たちも謝肉祭 だけと言わず、今のうちにいろいろ楽しんでおくといい。たとえば今夜の晩餐 とかね。そういえばこの近くに、美味しい胡瓜の塩漬け汁 を出してくれる店があるんだけど──」
「ぜったい行かない!」
フランクが料理の名前を出した途端、彼の言葉をさえぎって、エリーシャは声を上げた。
塩辛くて酸っぱくて発酵してて、香辛料がごたまぜに入った味の濃いスープ。初めて飲んだ時、全身の産毛が逆立って、あまりのまずさに思わず噎 せた。そのあとも香辛料が喉をちくちくと刺激して、水を飲んでも痛みは収まらなかった。
そうだ、あの時フランクはそんなエリーシャを尻目に、スープをおかわりしていた。あれが苦手だということを知っているくせに、わざわざそんなことを言うなんて。
「いじわる! さっさとくたばれ!」
そう吐き捨てたのに、フランクは愉快そうに目を細めてエリーシャを見る。
「ああ、そういえば小娘にはあの美味さが分からなかったか。なら何が食べたいんだ」
「ゴミクズの悪趣味。挽肉の粉揚げ焼き とか、麺麭の薄焼き とか、おいしいものはほかにたくさんあるでしょ」
「へぇ、そういうものがご所望なわけ」
それ以上言葉を返さず、フランクは笑みを浮かべた。エリーシャが想像していた反応と違う。喉元までせりあがった罵詈雑言 が行き場をなくす。
「そのあたりの家庭料理なら、この通りから都城側に一本道をまたいだところに、大衆食堂 がある。安くて味もいいから、行ってみるといいよ、ユーゼ。この小娘をもてなしたいっていう、当初の君の願いどおりに」
「……っ!」
──やられた。エリーシャは顔を赤くして歯噛みした。
彼はたまたま適時に立ち寄って話しかけたのではなくて、ユーゼが夕食の話題を出したときには、すでに話を聞いていたのだ。
「盗み聞き……っ!」
「人聞きが悪いなあ。呼びかけにいつでも応えられるように、客の話はまんべんなく耳に入れてるだけだよ。──ああ、それとも……もっと早く話題に割って入って欲しかった? ちみっこのお前が、気まずさでますます小さくなったあたりで」
「ちみっこじゃないし、小さくなってもない! それに、だれがフランクの助けなんか……!」
「ああ、もう! 二人ともいいかげんにしなさい!」
過熱する二人の応酬を、ついにはユーゼが声を上げていさめた。彼女はためいきをうすくはいて、気を取り直して顔を上げる。
「ねえエリーシャ、せっかくフランクが教えてくれたし、その大衆食堂 に行ってみない? 私も行ったことがないの。興味があるわ」
「……う」
大好きなユーゼに、そんな風に頼まれると嫌とは言えない。エリーシャはしばらく視線をさまよわせて逡巡 していたが、観念したように、こくりとうなずいた。
やがてフランクは酒肴 を求める客の声に応えて、卓から離れた。三人はゆるやかな歓談を楽しみ、杯が空になってしばらく、誰からともなく席を立った。
いくつかの銀貨や銅貨をフランクに渡し、彼にねぎらいの言葉をかけたスキアが、酒場の扉に手をかける。外から冷えた空気が吹き込んだ。街はすでに、とっぷりと闇に沈んでいる。
最後にエリーシャが外に出ようとした時、「灰の水曜日に」と、うしろから声がした。振り返らなくても、大斎期 の初日を指したその言葉を、誰が発したのか分かってしまう。それでも彼がどんな表情をしているのか知りたくて、エリーシャは足を止めて向きなおった。
「灰の水曜日に、ここを発つよ」
フランクは静かでやさしい笑みを浮かべていた。酒場の蜜蝋のともしびが彼の背を照らし、彼の輪郭を飴色のあかりで縁取っている。
ユーゼにもスキアにも秘密の、逢瀬の約束。その言葉の響きのあまさと密やかさに、喉の奥がきゅっと痛んだ。うまく声が出せなくて、エリーシャは言葉の代わりにこくんと頭を倒す。さっきあんなに口喧嘩をしたのに、途端にここを去るのが惜しくなってしまう。
心臓がとくとくと勝手にうるさくなった。鼓動を鎮 めようと胸もとで手を握る。
酒場の扉を開くと、夜のにおいがした。眼前に広がる、橙のあかりがこぼれる街並み、漆黒の空に引きしぼられた弓張り月、水晶の粉をまいたような星々。目に映るありとあらゆるものが、くっきりとうつくしく心に押し寄せる。それなのに、冷たい夜風が沁みるような、寂しいような気持ちが胸を締めつける。
不均衡な気持ちがないまぜになって、エリーシャはそれを少しでも外に逃そうと、たっぷりと息をはいた。陽が翳ってしばらく、キンと張りつめた冷たい空気に、彼女の呼気が白くわだかまる。
──〝好きなの?〟
冷気のにおいにふと、旅をしていた時に投げた言葉がよみがえる。
アルズダラスの北の雪山越えで、吹雪がやむのを待つために、中継小屋に身を隠していたときのことだ。女王アルテナとスキアの会話を、エリーシャは部屋の外で聞いていた。あまりにも二人の声がやわらかくて、交わされる言葉が睦 まじくて、スキアをのこして退室したアルテナに尋ねたのだ。
──〝どこ? どこがいいの?〟
恋情をみとめたアルテナに、さらに問いかける。
ひそかな憧れがあった。だから知りたかった。恋というものが、どこからやってくるのか。
アルテナが答える前に、ユーゼがあらわれて別の話題を持ちかけ、そこで問答は立ち消えた。白雪のもと命を散らした女王には、もう話の続きを乞 うことはできないけれど……今のエリーシャには分かる。〝どこがいいか〟なんて条件は、どうあっても後付けになるのだということを。
恋に条件などない。ただ、落ちるのだ。抗 いようもなく。
フランクがすすめた大衆食堂は、味も価格も申し分なかった。心もお腹もすっかり満たされて、三人は姉弟の邸宅へ帰る。
ユーゼは暖炉を火掻き棒で整えて、ゆったりと明滅する熾火になったことを確認すると、寝台に体をすべらせた。彼女と一緒に眠るはずのエリーシャは、まだ敷寝の隅にちょこんと座りこみ、両手に体重をかけてまくらを揉んで、凝った綿をやわらかくしている。
エリーシャの寝間着についた、首のうしろのリボンがほどけかけていることに気付いて、そっとユーゼが結びなおしてあげると「くすぐったい」と彼女は笑った。寝台の脇に置いた手燭のほのあかりに、ゆるく編んだエリーシャの長い髪が、濃い蜂蜜色に浮かぶ。
頭を落ちつけて横になったエリーシャに、ユーゼはそっと布団を被せた。ぬくもりを逃さないよう襟もとを整えてやったあと、寝具から身を乗りだして手燭を吹き消す。
静かな闇が二人を覆った。
「……エリーシャ」
「なに、おねえちゃん」
衣擦れの音がして、月明かりのもとで紅玉の瞳がユーゼに向けられる。エリーシャはゆっくりと眼をしばたたき、ユーゼの次の言葉を待っている。
素直な子猫めいたそのようすに、愛しさがこみあげる。ユーゼは彼女のまるい頬に手を伸ばし、ゆっくりと撫でて、後れ毛を耳にかけた。人間とは違う、とがった耳朶に。
「なんでもないわ。……おやすみなさい」
囁くようにつぶやいて、ユーゼは目を閉じた。
規則正しい寝息をつくユーゼのすがたを、エリーシャはうっすらと開けた、まつげの隙間で覗き見る。
この夜だけじゃない。ユーゼが何かを言いかけてやめることは、たびたびあって──その時機や状況から、何を言いたいのかを、エリーシャはなんとなく察していた。
(おねえちゃんは、やさしいから)
白い敷寝の上に流れる、ユーゼの長い銀髪を目でたどる。
エリーシャは、彼女の言葉の続きを催促することも、何を伝えたいのか問いかけることもしなかった。今はまだ、そのことに返せる答えを持ち合わせていないから。その話の存在ごと、ユーゼのやさしさにあまえて見ないふりをしている。
(……わたしは、ずるい)
胸にちくりと棘が刺さった。
忍び寄る眠気に抗えず、エリーシャはとろとろとまぶたを下ろした。眠りに落ちる間際、ごめんなさい、と心のなかでユーゼに詫びて。