2. 対顔
大斎期二日目、第一木曜日。
レギアの村境となっている木柵にもたれかかり、乾いた野草とたわむれていたエリーシャは、森から伸びる小道に人影を見つけて、あわててすそを払って立ち上がった。
人影はまっすぐに村へと近づく。やがて背嚢を背負った男だと分かるまでとなり──見覚えのある朽葉色の編み髪をみとめた彼女は、表情がふやけてしまわないよう、ひそかに唇を引きむすんだ。
「やあ」
「……ん」
エリーシャに目を留め、フランクが声を掛ける。彼女は平静を装って返事をした。
二人の距離が縮まると、彼は足を止めて意地悪く微笑む。
「村の外で待ってるなんて、そんなに僕が来るのが待ち遠しかった?」
「……うぬぼれないで。ゴミクズが迷子になったら、かわいそうだからだよ」
「ああ、そうかい。感謝するよ。スヴェートの路地で泣きべそかいてた、誰かみたいにならないよう心配してくれてるのか」
「ぐ……!」
エリーシャは返す言葉をなくして、フランクをにらみあげる。
本当は彼の来る日を指折り数えて待っていたのだ。けれど、それを見透かされたみたいで腹立たしくて、あわてて返した台詞が、やぶへびになってしまった。
フランクは大きな手をエリーシャのつむじに乗せた。笑みを浮かべて、わしゃわしゃと蜂蜜色の髪をかきまぜる。指のあいだをすべる髪のなめらかさを確かめるように、何度も。
すこし粗雑で、でもあったかい手のひらの感触が思いのほか心地よくて、エリーシャはへそを曲げたことも忘れて目を細めた。
「……まずは村長に挨拶しないとな。案内しろ、小娘」
「案内してください、でしょ」
唇をとがらせて嫌味たらしく言ってみても、声がまるくなってしまう。
離れた体温を名残惜しく思いながら、エリーシャはもつれた髪を梳いた。肩に落としていたフードをかぶり、「ついてきて」と彼に声をかけ、村の入り口である柵をくぐる。
レギアの村はスヴェート国の西、シュタール国との国境のほど近くに位置する、小さな集落だ。村人らは豊かな自然に寄り添うようにして暮らし、その多くは希少な薬草であるルーヴ草の栽培や加工に携わっている。
街から遠く離れた僻地なので、乳や卵、パンや野菜といった村でまかなえるもの以外は、旅に出るか、週に一度だけ来る行商人にことづけるしか手に入れる方法はない。旅人がめったに訪れることがないため、店といえば小さな雑貨屋がひとつあるだけで、宿泊施設どころか食堂もなかった。婚姻のほとんどは村人同士で成立し、葬儀なども集落のなかで行なわれる。彼らの世界は、この村ひとつで完結していた。
そんな閉じた集落に住む者から見て、やはり外の世界からきた者というのは、それだけで異質に映るのだろう。
よく晴れた昼下がり。秋らしい低い陽が、連れ立って歩く二人のすがたをやわらかく照らしている。うしろを歩くフランクが、泉のそばで洗濯をする婦人の、あるいは鍬を片手に道行く武骨な男たちの目を否応なく引いていることに気付いて、エリーシャは落ち着かない気持ちになった。
ちらとうしろをふりかえる。注目されていることに気付いていないかのように、フランクは衣嚢に手をつっこんで、のんびりと村の景色を眺めている。
土仕事に明け暮れる村人らとは違う、上背のある体に長い手足、すらりとした体躯。彼を見た若い村娘らがひそひそと落とすささやきが、あまい囀りに聞こえるのは、きっと気のせいではないだろう。
「……ん? なんだ」
視線に気づいて立ち止まり、フランクがいつもと変わらない口調で尋ねる。
「なんでもない。あとすこし」
それだけ言うとエリーシャは前に向きなおり、案内を続けた。
やがて二人は村で一番大きな邸──とはいえ、スヴェートで見られる中流の家と同程度──の前にたどりついた。つる薔薇が絡みあう垣根の奥に、ちいさな中庭を有する邸宅だ。日焼けして乾燥した秋薔薇の群れを抜けて、エリーシャは叩き金を数度、玄関扉に打ちつけた。しばらく待つと、奥から靴音が近づいてくる。わずかに扉が開いて、白ひげをたくわえた渋面の男の顔が覗いた。
「村長、前に話したお客様がきたので……えっと……ごあいさつに」
「はじめまして、フランクです。スヴェートから参りました」
たどたどしいエリーシャの説明をフランクが継いで挨拶すると、年嵩の男はやっと扉を大きく開いて「村長のアーロンです」と言って、手をさしのべた。彼はフランクと握手をしたのち、二人を邸のなかへと招く。
勧められるままに応接間の長椅子に腰を落ち着けると、しばらくして手の込んだまとめ髪が印象的な初老の女が、紅茶を運んできた。「妻のマルタです」とアーロンが紹介する。マルタは頬のしわを深めて、にっこりと笑った。
「ようこそ、レギアの村へ。スヴェートからいらしたんですって? 道中大変だったでしょう。ここは馬車も通らない僻地だから」
マルタが紅茶と果糖煮を卓に置きながら、フランクにやさしく話しかける。
「いえ、巡礼の旅ですので。お気遣いなく」
「ああ、そうねぇ……大斎期! こんな時でなければ、林檎のケーキを作っておもてなしできたのだけれど。残念だわ」
「マルタ。不謹慎だぞ」
アーロンのいさめる声に、マルタは肩をすくめて笑ってみせる。そんな夫妻のやりとりを見て、彼は微笑んだ。
「お気持ちだけありがたく頂きます。私も節食中の身ですので」
(よく言う)
心のなかで毒づいたエリーシャの声が届くはずもなく、フランクはそのままよそゆきの顔と言葉で、自らのことを夫妻に語った。
スヴェートで酒場を営んでいること。それゆえ大斎期は店を閉めていること。英雄ユーゼが果たした祖国奪還、その道行きに同行したこと。エリーシャとは旅のさなかに出会った仲間であること──
「騎士団長ユーゼのことはよく覚えていますよ。エリーシャをつれて、はじめてこの村に来たとき、この子をよろしくお願いしますって、とても丁寧にごあいさつして下さったわ」
「ああ、ユーゼは彼女のことを大切に思っていますから。まるで妹のように」
「そんなことは誰もが知っている。〝英雄が愛しんだ、炎を司る竜の娘〟──吟遊詩人がよく使う文句だ。もっとも、君のような男が詩われた英雄譚など、私は耳にしたことはないのだが」
マルタとフランクのやりとりに、アーロンの無愛想な声が被さった。たしなめるように「あなた……」とマルタが呼びかける。しかし彼は何も言わずに、じっとフランクの反応をうかがっている。
「……信用できないということですか」
「エリーシャが連れてきた客人だ。君の話が嘘だとは思ってない。──だが疑問が残る」
フランクが口の端を持ち上げると、アーロンは硬い声を返した。
よそ者を簡単に信用しない性質だからこそ、彼はこのレギアの村長を務められるのだろう。なにせここはただの集落ではない。万能薬となるルーヴ草、その群生地をかこう村なのだから。
ここに住み始めた頃の苦い思い出が、エリーシャの脳裏によぎる。彼女はマルタと同じように、机を挟んだ二人のことを気遣わしい視線で見上げた。
「……私は騎士でも貴族でもありません。縁あって英雄たちの旅に同行した、単なる平民です。ですのでスヴェート凱旋の前に彼女らと別れて、普段の暮らしに戻りました。詩人も、知らない者のことなど詩えないでしょう」
「分からないな。たとえ平民とはいえ、英雄を援けたという誉れは変わらないだろう。なぜそれまでの苦難に見あった栄誉を授からなかった?」
「自由と、過ぎた栄誉とは相反します。私には重すぎた」
その言葉に、フランクと応酬していたアーロンが、ふとエリーシャに視線をやった。それはどこか憂いを帯びたもので──レギアの村に住みながら、たびたびスヴェートにおもむいては疲弊して帰ってくる、エリーシャのすがたを思い出したに違いなかった。
「……そうか」
ぽつりとそう呟いてアーロンは押し黙った。
乳白色の硝子窓に濾された陽が翳る。鳥が囀る声が、静かな広間に響く。
何か言ってこの沈黙を埋めなければと、思いを巡らせたエリーシャが息を継いだその時、フランクがおもむろに口火を切った。
「……エリーシャは、この村ではどんな存在ですか」
「え」
エリーシャの口から間の抜けた声が漏れる。しかしフランクもアーロンも、彼女の声に反応せずに、ただ黙って相手に視線を投げている。
彼らのそばで、ただエリーシャだけが落ち着きなくそわそわと、二人の顔を交互に見ていた。そうしているうちに怖くなる。すっかりこの村になじんだつもりでいたけど、アーロンの気持ちはどうなんだろう。疎まれていたらどうしよう──
「……正直なところ、」
アーロンの声に、エリーシャは身を硬くする。
「最初は戸惑った。いくら英雄ユーゼの頼みとはいえ、この子は竜人族だ。私たちとは体のつくりも、血も、何もかもが違う。かつて、この村の近くにあったラハノバで暮らしていたとはいえ……竜の娘をどう扱えばいいのか分からなかった」
彼はそこで一度言葉を切った。
フランクに目で続きをうながされ、また重い口を開く。
「……それに加えてこの村は、ルーヴ草の生産と加工を生業としている。よそ者を歓迎できる集落ではないのだと、あの時英雄にもそう言ったよ。……そうしたらあの英雄は、なんて返したと思う?」
エリーシャも初めて聞く話だ。彼女は不安げな面持ちのまま、アーロンの次の言葉を待った。彼はしばらく沈黙を守り、それからはじめて吐息のような笑みを漏らした。
「──〝たしかに生態の違いはあります。でも彼女は、普通の人間の女の子と同じ心を持っているんです。あの子はすこし不器用なところがあるけれど、こうと決めたことには懸命になれる、ひたむきな子です。どうか彼女に機会を与えてやっては貰えませんか〟」
アーロンがなぞらえたユーゼの台詞に、マルタが微笑みながらゆっくりとうなずいた。
「初めは、身内の欲目だと思った。それこそエリーシャが移住してすぐの頃なんて、意志の疎通がうまくいかず、何度も村人らと衝突したものだ。でもそのうちに、それは竜人族であることが原因ではないのだと知れたよ。この子はたしかに言葉足らずで、誤解されやすいけれど……英雄の言う通り、不器用ながらもひたむきな娘なのだと、長い時間をかけて知ることができた」
「エリーシャは諦めなかったものね」
夫妻のやわらかな物言いに、エリーシャはうつむいた。今まともに二人と顔を合わせてしまったら、情けない面持ちになってしまいそうで。
「この子は大切な村の一員だ。今では村娘のなかで一番、ルーヴの花摘みの手際がいい」
──そんなこと、初めて聞いた。
目の奥が熱くなるのを感じて、エリーシャはあわててフードを引っぱり、深く被って表情を隠す。気を抜くと嗚咽が漏れてしまいそうで、唇を噛んで押し黙った。
うるむ眼を何度もしばたたいてごまかしていると、フードのふちについた白い毛わた越しに、フランクが腰をかがめて顔を覗き込んでいるすがたが目に入る。
「……なんだ、感激して泣いてるのか?」
「泣いてなんか、ないっ!」
勢いよくフードを下ろして彼に噛みつくと、フランクは愉快そうに笑った。アーロンとマルタは初めて見るエリーシャの剣幕に目をまるくしていたが、やがてフランクにつられて軽やかな笑い声を立てた。
顔を真っ赤にして憤慨していたエリーシャも、夫妻が楽しげに肩を揺らすさまを見て、怒るに怒れなくなってしまう。はにかむように口をとがらせて、三人の顔を見渡した。
これを機に、応接卓の上に置かれたままだった紅茶と果糖煮に、各々の手が伸びた。なごやかな歓談が交わされ、その合間に嗜好品を口にしていく。
「──そういえば、ルーヴの花畑を見てみたいのですが。エリーシャの案内のもと、私が足を運ぶことを許してはもらえませんか」
ひとつの話題が途切れたあと、フランクがさらりとアーロンに尋ねた。
村長は紅茶を卓に戻して渋面をつくる。
「君は策士だな。あんな風にエリーシャを褒めそやしたあとで、彼女の案内のもとでという条件を、私が断れるとでも? ここで君の提案を蹴れば、エリーシャに信頼を寄せたという私の言葉は、枯れ葉よりも軽くなる」
「まさか。考えすぎですよ」
そうフランクが答えると、アーロンはくつくつと声を立てて笑う。物言いは挑発的だったが、アーロンの声に批難の色は見当たらず、笑みは風通しの良いものだった。
「まあいい。不器用なエリーシャや実直な騎士たちには、君のような者こそが必要だったのだろう。私は自分で言うのも何だが、とても用心深い性質でね。出会ったばかりの君のことは、まだ信頼できないが──エリーシャ」
話の途中で名を呼ばれ、エリーシャはアーロンの方へ顔を向けた。
「花畑に行く前と、帰ったあとには私に声をかけなさい。それと、客人にはルーヴの花に手を触れさせないように」
「……は、はいっ」
エリーシャは驚いて、半音上がった声で返事をする。
「ありがとうございます。──そうだ、無理を強いた詫びという訳でもないのですが」
フランクは床に下ろしていた背嚢の紐をゆるめて、なかから布包みを取り出した。長細い円柱のそれを卓に置き、幾重にも巻いた布を取り払う。
「……まぁ」
マルタが感嘆の吐息を漏らした。
フランクの手に収まったそれは、山脈が描かれた紙片が瓶に貼られた、葡萄酒だった。
「ザノフ山脈のふもとの葡萄畑は、ときおり冬を待たずに冠雪します。収穫前の完熟した実が霜にさらされて凍りつくと、水分が減って旨味が凝縮される。その凍った葡萄を真冬の夜明け前に収穫し、希少な果汁を絞って作られたものが、このザノフの氷葡萄酒です。酒場を営む私は、これくらいしか良い手土産が見繕えませんでしたが──よろしければ、復活祭にでも開けて頂ければ」
「氷葡萄酒! ああ、行商人から話を聞いたことがあるわ! 蜂蜜みたいにあまくて濃厚なんでしょう?」
目を輝かせて、マルタが軽やかな声を奏でる。瓶に触れようとしてはたと気づき、「でも、こんな上等なものを頂いてしまっていいのかしら」と彼女は夫の方に視線をやって、彼の反応を窺った。
「せっかくのご厚意だ。ありがたく頂こう」
アーロンが妻にそう答えると、マルタは嬉しそうに顔をほころばせた。
「しかし……この氷葡萄酒を、交渉の手段として使わなかったところは好感が持てる。それとも私が花畑へ行くことを許可しなければ、この手土産は背嚢のなかに隠されたままになっていたのか?」
冗談の裏に皮肉をひそませて、アーロンは口角を上げた。
フランクは眉根を寄せて苦笑する。
「なるほど、あなたはたしかに用心深い」