3.  吐露 

 

 

「ルーヴの花は、朝方の青い陽のもとで見るのが一番美しい」との村長の助言通り、花畑には明朝におもむくことになった。夫妻は今夜の夕餉ゆうげや寝床の世話を申し出てくれたが、彼は大斎期ヴェリーキー・ポストを理由に、エリーシャの家で節制・・すると断った。

 アーロンとマルタは実のところ外界の話に飢えていたらしく、その後もフランクが語るスヴェートの逸話を、あれこれと掘り下げては聞きたがった。会話を交わしているうちに陽は傾き、二人が(やしき)を出た時には、薄紅色の夕暮れが垂れこめていた。

 

「ふう、さすがに疲れたな。お前の家はどっちだっけ」

 

 秋薔薇の垣根を抜けて溜め息をついたフランクが、隣のエリーシャを見下ろす。

 

「こっち」

 

 エリーシャが、ついと指差して先導する。彼の足音がついてくるのを聞きながら、村で一番大きなナナカマドの樹が見える曲り道を行く。

 ナナカマドの紅葉こうようは夕陽をあびて、煉瓦れんが色に燃えさかっていた。積もる落ち葉を踏みしだくと、ときおり木の実が潰れる感覚が靴裏に届く。

 ──ふと、見慣れたすがたを目にして、エリーシャは立ち止まった。

 

「……キト」

 

 目の前の、そばかす顔の少年の名を呼ぶ。年がそう違わないからか、最初から親しげにエリーシャに話しかけてくれた、めずらしい村人だ。

 

「あれ、エリーシャ。ちょうどよかった、今から家に行こうと思ってたんだ」

 

 キトと呼ばれた少年は、にかりと笑って彼女に駆け寄った。手には布袋がげられていて、彼はそれをおもむろにエリーシャに差し出して、袋の口を開いた。

 あまり差のない背丈のふたりが、布袋のなかを覗き込む。エリーシャの蜂蜜色の髪と、キトの麦わら色の髪が、触れあうまでに近づく。

 

「さっき火焔菜ビーツの収穫をしたんだ。たくさん採れたから、お前にもやるよ」

 

 彼の言葉通り、布袋には丸々とした赤いかぶが入っていた。エリーシャは彼から布袋を受け取って、頬をゆるめる。

 

「……ありがと。深紅の煮込み汁ボルシチにする。おばさんにも、お礼を言っておいて」

 

「いいって、こないだ蒔蘿ディルを貰ったしな。おかげでスープがうまかった」

 

 キトがはにかむように微笑んだ。

 

 むつまじいやりとりを交わしていた二人だったが、一瞬の空白ができたそのとき、キトはエリーシャのうしろに立つ人影に気付いた。

 一瞬目を見開いたのち、じろじろとフランクを上から下までいぶかしげに眺める。眉をひそめて、キトはエリーシャに尋ねた。

 

「……誰?」

 

「あ……えと、旅をしてたときの仲間。フランク。それで、この子はわたしの家の隣に住んでる、キト」

 

「はじめまして、少年」

 

 エリーシャの紹介ののち、フランクはキトに握手を求めて手を差し出した。しかし彼は笑みを浮かべているものの、薄く開いた眼でキトを見下ろしていて、妙な威圧感を漂わせている。キトもそれを察したのか、フランクを警戒するような眼で眺めた。拳を握ったまま、握手に応えようとしない。

 

「……気取ったやつ!」

 

 吐き捨てるようにそう言って、キトはもと来た道を駆けだした。突然のことに驚いたエリーシャが「キト?」と呼びかけても、彼は振りむかなかった。

 

「どうしたんだろ。いつもはもっと、ちゃんとしてるのに。ゴミクズが、やなやつだって感づいたのかな」

 

「……へぇ」

 

「……なに、そのへぇって」

 

「別に。何でもないよ」

 

 フランクは笑みを含んだままそう言って、あさっての方を向いた。

 彼の「何でもない」は、そのほとんどが言葉と逆のことが多い。それでも経験上、しつこく聞いても答えてくれないことは分かっていたので、エリーシャはためいきをついた。

 

火焔菜ビーツもって」

 

 彼のみぞおちに勢いよく布袋を押しつける。フランクはたちまち眉をひそめた。

 

「お前、手ぶらだろ。僕は旅の荷があるのに──」

 

「うるさい。いっしゅくいっぱんのおんって言うでしょ」

 

 有無を言わさず言葉を被せると、しぶしぶといったていで持ち手に手がかけられる。

 そんなに重いものじゃないし、エリーシャでも無理なく運べるのだけれど、腹立たしさからの当てつけだ。言葉を多く持たず、上手く操れないエリーシャとは逆に、フランクは言葉をたくさん知っているのに、皮肉屋で本心を見せない。

 

「こっち」

 

 ナナカマドの樹のむこうに建つ家々を指さして、エリーシャはさっさと歩きだす。一拍遅れて、枯れ葉を踏み分ける足音がついてくる。

 

 

 

 

 きしむ扉を開けると、日よけ布から漏れる飴色の明かりに、家財の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていた。エリーシャは慣れた足取りでなかに入り、机の上の燭台に火をつける。蝋燭ろうそくにあかりが灯って、まゆのようにやわらかく家のなかを照らした。

 

 彼が背嚢はいのうを床に下ろして部屋を見渡すすがたを、落ち着かない気持ちのまま眺める。数ヶ月前にもフランクがこうして家を訪れたけれど、あの時と今とでは何もかもが違っていた。初めて彼がこの家に来たときは、こんな風に地に足がつかないような気持ちにはならなかったし、彼のことを〝きらい〟だと思い込んでいた。

 

「あの日よけ布」

 

 フランクがおもむろに呟く。いつの間にか物思いにふけっていたエリーシャが、我に返って彼を見上げると、彼は寝室の窓を指差していた。

 

「前からあんな色だったか」

 

「……さいきん変えたの」

 

 そんな細かなところまで覚えていたのかと、内心驚く。以前フランクが来たときに掛けていた日よけ布は、ずいぶんと陽に焼けて白茶けていたのだ。それに、つまずきかけた時につかもうとして、うっかり爪で布を引き裂いてしまっていた。

 

 どうせ客人など来ないからと適当につくろって、そのままにしていたのだけれど──先日のスヴェート訪問から戻ってしばらく、エリーシャは行商人に頼んで布地を取り寄せた。雑事の合間に針仕事にいそしんで、何度も針で指を刺しながら、日よけ布に仕立てたのだ。

 

「ふぅん」

 

 フランクが口の端に笑みを浮かべながら寝室に行って、布を撫でた。

「いい色だね」と彼が言葉を落とす。乳白の布越しにこぼれる残照が、彼の輪郭を淡く縁取る。褐色のはだに淡い光が落ちた。

 

 そのすがたを見た瞬間、なんだかとても不純な気持ちが胸を突いた。

 それをごまかすように「夕食つくるから」とエリーシャは言い残して、フランクから目を逸らし、ちいさなくりやへ逃げこむ。

 

「ああ、もうそんな時間か。ならこれを使いなよ」

 

 背嚢を置いたところに戻って、なにかごそごそと取り出したかと思うと、彼は乾酪チーズと燻製肉の塊を差し出してきた。

 エリーシャが目をしばたたく。目の前のものが見間違いではないことを悟ると、押し殺した批難の声を上げる。

 

「ちょっ……大斎期ヴェリーキー・ポストなのに!」

 

 節制の期間とされる大斎期ヴェリーキー・ポストは、必要最低限の栄養のみを摂ることになっている。救い主ヨシュアに準じて食事は一日に一回のみとし、動物性の食べ物を忌避きひするのが、この国においての〝普通〟だった。

 

「僕には関係ない」

 

 乾酪チーズの包み紙を剥がして、ちぎったかけらを口に含みながら、フランクは平然と答える。

 

「なんだ、小娘はそういう信仰を持ってるのか」

 

 まるでエリーシャの方がおかしいような口ぶりで聞く。

 

「む……村のみんながそうだから……わたしもそうしてる」

 

「へぇ、村人らにならってたのか。それはご苦労なことで。それじゃあこれは僕だけ食べるよ。もったいないし」

 

 煙でいぶされた肉と、乳がこごった濃いにおいが、ここ数日野菜しか食べていなかったエリーシャのに突き刺さる。くぅ、とお腹が鳴いた。くちのなかに唾液が溜まる。

 

「た……」

 

「た?」

 

「食べる」

 

 思わず飛び出たその言葉に、フランクは声を立てて笑った。

 

「好きにするといい」

 

 彼はそう言って、燻製肉と欠けた乾酪チーズを押しつける。

 それらを受け取りながら、エリーシャは自分が信仰深い村人ら、しいては人間チェラベキアとは違う存在であることを、改めて思い知らされたような気持ちになった。霧がたちこめる崖にいた、名もなき種族の生き残り──フランクと同じように。

 

 エリーシャは神を信じていない。人間チェラベキアの間では当たり前とされる信仰も習慣として無かったし、そもそもどうして目に見えないものを信じられるのか分からない。節食だって、さっき彼が言った通り、周囲に合わせていただけだ。

 

 エリーシャはフランクをにらみつけて、彼のことを心のなかで「魔性」とののしった。

 いつだって彼の存在は、エリーシャをたやすく揺さぶってやまない。

 

 

 

 

 キトに貰った火焔菜ビーツで作った深紅の煮込み汁ボルシチと、黒パン。それからフランクが持ってきた燻製肉を切って火であぶったものと、乾酪チーズ。思いのほか豪勢になった食卓をかこんで、二人は夕餉ゆうげった。

 ぽつり、ぽつりと言葉を落として、ゆっくりと会話を交わしていく。けっして賑やかな食事ではないけれど、夜に染みとおるようなやりとりが心地良かった。

 

 食事を終えて、(くりや)で調理器具や皿を洗い終わったエリーシャが居間に戻ると、卓の上には綺麗な箱が置かれていた。分厚い臙脂えんじ色の紙にろうを引いて組み立てたもので、蓋がついている。

 

「──これ、なに?」

 

「ああ……土産」

 

「おみやげ?」

 

 驚いて、向かいの席に腰掛けながらくり返す。フランクが決まりの悪そうな顔で視線を外した。

 

「……開けていい?」

 

 尋ねると、彼は余所(よそ)を向いたままうなずいたので、エリーシャはそっと蓋に手をかける。

 

 箱のなかには一揃えの小さな靴が収まっていた。艶のある、赤い浅履きの靴だ。甲のところにはリボンがあしらわれており、縫い目が均一に揃っていることから、丁寧な仕事のものだと分かった。

 

「……きれい」

 

 蝋燭のあかりを照り返す靴を見て、吐息とともに感嘆を落とす。

 靴を手に取って眺めていると、フランクが席を立った。椅子に腰掛けたエリーシャに近付いて、足もとにしゃがみ込んだかと思うと、宙に浮いていたつま先を捕らえる。旅のときにも履いていた、くたびれて窮屈になっていた靴が脱がされた。

 

「ひゃっ!? ち、ちょっ……!」

 

 批難の声を上げても、彼はまるで聞こえていないかのように、エリーシャの手から新しい靴を取りあげた。かかとに指を添えて、静かに靴をあてがう。靴は吸いつくようにぴったりと、彼女の足を包んで──はくれなかった。

 

「……少し大きいな」

 

 フランクの言う通り、靴とエリーシャの足とのあいだに隙間ができている。きちんと採寸してあつらえたのではないのだから、当然ともいえた。

 彼は靴を履かせたまま、彼女のつま先を自らのももの上に置いた。それから靴と踵に生じた隙間に指を入れる。

 

「ん……」

 

 どれだけ空いているのか確かめるためだと分かっていても、普段触らない靭帯じんたいきわを指でなぞられるとくすぐったくて、背筋を撫で上げられたような震えが走る。

 

「す……すぐちょうどよくなる」

 

「そうだな」

 

「それに、詰めものをすれば、いまだって履ける」

 

「うん」

 

 うなずきながら、フランクは箱のなかに入っていた革切れを小さく折りたたんで、靴の隙間に押し込んだ。

 彼の腿の上に乗せていた踵をそっと上げる。靴は外れることなく、彼女の足の動きについてきた。

 

「……ぴったり」

 

 エリーシャが小さく笑みをこぼす。

 

 フランクが靴をいじっていた手もとから視線を上げた。片足を膝立ちにして床にかがんだ彼の目線は、椅子に腰かけた彼女よりも低かった。慣れない高低差の物珍しさから、彼の生えそろったまつげふちを眺めていると、フランクはまた目を伏せて、靴を見る。

 

「恋人には靴を贈っちゃいけない、って教訓を知ってるか」

 

 突然もたらされた話題に目をしばたたく。

 

「……知らない。なんで」

 

 すぐにそう尋ねると、フランクは吐息を漏らすように笑んだ。

 

「ひとつは、大きさがぴったり合うことがまれだから。もうひとつは、靴を履いた恋人が、遠くに逃げてしまうって言い伝えがあるから」

 

 話が飲みこめなくて、また数度またたく。卓の上で蜜蝋の炎が揺らめいて、壁に投射された二人の影がおどる。

 

「……わたしに、逃げろって言いたいの?」

 

「逃げる? 小娘が? ──まさか。その逆だよ。お前はこれを履いて、レギアの村からスヴェートに移るんだ」

 

 エリーシャが目を見張る。

 フランクが顔を上げた。彼の水色の双眸そうぼうと、彼女の赤い瞳とが交わる。

 

「会議に出席する機会が増えるんだろう。ここから都城まで二日もかけて通い続けるのは無理だ。今すぐにとはいかないだろうけど──これを履いて、スヴェートにおいで」

 

 彼のやわらかな声が耳を撫でた。

 

 ……フランクの物言いは、この上なくやさしいものだった。けれど彼の言葉を聞いたエリーシャの体のなかで、突如として強い嵐が巻き起こる。

 

「……おねえちゃんに頼まれたの?」

 

 に渦巻くものが、知らず唇からこぼれ落ちた。

 今度はフランクが目を見張る番だった。もし演技だとしたら役者なみ、と心のすみでもう一人の意地悪なエリーシャが囁く。

 

「なんでユーゼの名前が出てくるんだ」

 

 彼の声が硬くなる。

 それでも、一度自覚した気持ちから目を逸らすことはできなかった。エリーシャはたまらなくなって、声を荒げる。

 

「だって……だってそれは、おねえちゃんがずっとわたしに言おうとして、言わなかったことだもん!」

 

 先日泊まったユーゼの家の寝床のなかで。

 旧体制派との顔見せの会議が始まるまでの待ち時間で。

 長い旅を経てスヴェートにたどりついたエリーシャを、出迎えてくれたあの時に──

 

 ユーゼの瞳に逡巡(しゅんじゅん)がよぎるのを何度も見た。けれど結局ユーゼは何も言わなかった。ためらいがちに引き結ばれる唇。綺麗な白銀の眼が、伏せられたまつげのせいで暗くかげる。

 そんな顔をさせたくなかった。けれど、エリーシャから移住の話を持ちかけることは、どうしてもできなかった。

 

「僕は何も聞いちゃいないさ。今の小娘の状態をいつまでも続けられないことくらい、少し考えれば誰にでも分かる。……何が気に食わないんだ。そんなにこの村から離れがたいのか?」

 

「……違う」

 

 もちろん長年親しんだレギアの村を離れるのは名残惜しい。昼間に村長が言ったように、エリーシャは何年もかけてこの村になじんだ。それに、新体制派の基盤ができるまでは安全なところで暮らせるようにと、ユーゼがわざわざ手筈てはずを整えてくれたことは、感謝してもしきれない。

 

「じゃあ何で──」

 

「こわい」

 

 フランクの言葉をさえぎって本音を落とす。

 見ないふりをしているうちに、大きくなってしまった感情。それに名前を与えた途端、黒くて冷たいものが身のうちに満ちて、胸を凍らせた。

 

 初めは恐れなんてなかった。けれど小さなエリーシャが、大きなスヴェートの街にあらためて立ったとき──眩暈めまいがした。人間チェラベキアだらけの都市を目のあたりにして、これから歩もうとする道行きの果てしなさを知って。

 これまではユーゼの開いた道をゆき、ユーゼが用意した居場所で頑張ればよかった。でもスヴェートに移住するということは、本格的に異種族和解に取り組むということを意味している。今度は一人で道を開かなければならない。そう思うと足がすくんだ。

 

 都城での会議で浴びせられた、旧体制派の人たちの罵倒や、蔑視べっしのまなざしや、対話を拒否される絶望を思い出す。それは前にも味わったものだった。

 人間チェラベキアの血が半分入っているという理由だけで、竜人族の群れから弾かれ、なぶられ、殺されかけた、あの記憶──

 

 幼いころ、エリーシャは竜人族の群れから追い出され、人里であるラハノバに辿りついた。村人らは彼女に良くしてくれたが、そのラハノバも先の大戦で戦火にあって、彼女はまたひとりぼっちになった。

 食べず、眠らず、自暴自棄になって、死の誘惑に身を任せかけていたとき、エリーシャの胸に希望の火を灯してくれたのは、ユーゼだ。

 

 ──〝簡単にはいかない問題だから、すぐにとはいかないけど。その時はエリーシャ、あなたに橋渡しをして欲しい〟

 

 ──〝だってあなたは、竜人族でも人間チェラベキアでもあるんだから〟

 

 それは、竜人族と人間チェラベキアいさかいをなくすという夢。

 ……生まれて初めて、自分にも価値があるのだと思えた。ユーゼと夢のために生きていこうと決めて、絶望から這い上がった。

 

 それなのに、いざ夢が近づいた今、ただ道行きに恐れをいだいてばかりいる。

 どうしてこんなに意気地がないのだろう。情けなくて涙がこぼれた。

 

「こわいものから逃げようと、おねえちゃんにあまえて、答えを出さずにいる。そんなずるい自分が、だいきらい……!」

 

 引き絞るように叫ぶ。嗚咽が沸きあがって、喉がひしゃげて上手く声が出ない。

 

「……おねえちゃんみたいになりたかった」

 

 ぽつりと言葉と涙を落とす。

 

「強くて、迷いがなくて、芯がしっかりした、おねえちゃんみたいにひとに、わたしもなりたかった」

 

 初めてユーゼに会ったとき、成長したらこうなるのだと憧れた。

 あれからずいぶん経って、エリーシャは大きくなったのに、心はいつまでも弱いままだ。

 

 炎がゆらめく音すら響く静寂が、場を支配する。

 黙って話を聞いていたフランクは、怒るでも憐れむでもさげすむでもなく、ただ表情のない眼でエリーシャを見つめていた。

 床板がきしむ音が響く。フランクは立ち上がって、彼女を見下ろした。

 

「お前はユーゼにはなれないよ」

 

 静かに彼がつぶやく。

 

「お前はユーゼじゃない。お前は簡単に泣くくせに、負けず嫌いで諦めが悪い。一度決めたら意見を曲げないくせに臆病で、考えてることがすぐ顔に出る」

 

 遠慮のない彼の物言いに、エリーシャはぐっと息を詰める。うわべの慰めを口にしないところが彼の美点だと分かっていても、傷ついた心に鋭い言葉が突き刺さる。

 

「……それがお前なんじゃないのか」

 

 諭すような囁きに、エリーシャは顔を上げた。

 

「スキアが去ったとき、自分が正しいのか分からなくなったユーゼに、お前は自分の意見を叩きつけた。ふたりから、ひとりとひとりになっただけだと、そう言った。ユーゼにはなかった考えだ。それは、お前がお前だからできたことじゃないのか」

 

 エリーシャが眼を見開く。

 彼は苛立いらだったように、なおも言葉を連ねる。

 

「だいたい何だ、ユーゼが強くて迷いがないって? 弟ひとりに意見を拒絶されただけで、手が震えて剣のひとつも持てなくなった彼女が?」

 

 はっ、と鼻で笑って、エリーシャを見る。

 

「迷ってたさ。迷いながらも前に進んでただけだ。小娘やレニの言葉を聞いて、自分を叱咤(しった)しながらね。長く一緒にいるのに、お前の勝手な理想をユーゼに押しつけるな」

 

 彼の台詞が胸を射抜く。凍りついていたはずの心に、熱が灯る。

 ──そうだ。あの時ユーゼも迷っていた。どうして忘れていたんだろう。あんなに彼女の支えになりたいと願ったのに。

 

「……迷っていいの?」

 

 長い沈黙のあと、ぽつりと尋ねて彼の眼を見ると、しかめ面のフランクが目を細めた。

 

「むしろ迷わないやつの方が気持ち悪い」

 

「いろんなことがこわいままで、いいのかな」

 

「こわがりは今にはじまったことじゃないだろ? そのたびにユーゼにあまえて、彼女は嬉々として世話を焼いてた。そうやって励まされて前に進んでたんじゃないのか、お前は」

 

 次から次へと軽快に答えを返される。胸のなかにあたたかさが広がって、こごっていた冷たくて黒いものが、溶け落ちていく。

 

「……ばか」

 

 なじる言葉と一緒に笑みが漏れた。

 彼の返答のひとつひとつが、そのままのエリーシャでいいのだと認めてくれている。

 

 フランクの手が伸びて、エリーシャのつむじに重みが乗った。彼は彼女の頭をゆっくりと撫でる。髪の上をすべるあたたかさが心地よくて、彼女は詰めていた息をほうっといた。濡れた目じりを細めて、彼のぬくもりといたわりを享受する。

 

 突然強くはなれない。急には変われない。とても情けないことのように思うけれど、それはどうしようもない本当のことだ。だって今のエリーシャは、今までの甘えん坊で寂しがり屋のエリーシャと、いつだって地続きなのだから。

 

 これから成すことの大きさに足がすくんでも、竜人族や人間チェラベキアたち──ことに旧体制派の人たちに恐れをいだいても、その感情を消すことは今のエリーシャにはできそうにない。そのことにずいぶん悩んで自分を嫌いになりかけたけれど、フランクが言うように、そのこわさを抱えたままでもいいのかもしれない。あの頃のユーゼがそうであったように。

 それに、一人で抱え込んで自分を追い詰めていたけれど──困ったときに声を上げれば、助けてくれるひとは周りにいるのだ。ユーゼやスキアやレニ……それにきっと、フランクも。

 

「──それで」

 

 しばらくして彼が落としたつぶやきに、エリーシャの思考が現実へと戻った。

 顏を上げてフランクの方を見ようとしたが、なぜか頭に乗った手に力を入れられて、それを邪魔された。一呼吸おいて、彼が言葉を続ける。

 

「……さっき僕が言ったことへの反応は?」

 

 きょとんとして目をしばたたく。

 いつもよりどこか張りのない彼の声に、思わず小首をかしげる。

 

「……さっき、って?」

 

 疑問を返すと、彼のまわりの空気があきらかに冷え固まった。

 エリーシャはなんとか頭を上向かせようと、彼の手のひらの下でもがきながら、さきほどのやりとりを一生懸命思い出す。何か、答えを返さなければならないような台詞があっただろうか。

 

「──もういい」

 

「え……? ひあっ!?」

 

 すっとんきょうな声を上げて、エリーシャは足をばたつかせた。突然フランクが彼女を抱き上げたのだ。履かせてもらった新しい靴が脱げて、床の上に転がる。

 

「あ、靴……! お、下ろして!」

 

「ああ、ちょうどいいじゃないか。脱がせる手間がはぶけた」

 

「脱が……っ!?」

 

 顔を真っ赤にしてぱくぱく口を開け閉めする。

 

「ち、ちょっと待って、なんでいきなりそんな……っ」

 

「いきなり? ……ああ、お前はそう思うだろうね。さっきの話も、何のことか分からなかったみたいだし」

 

「だ、だから、ちゃんと説明して!」

 

 彼女の抗議に構わずに、彼はさっさとエリーシャを寝室へ連れて行った。

 いつもは軽いエリーシャだけを乗せてきた寝台ベッドが、彼女を抱えたフランクに乗られて、ギシリと軋む。そのまま寝台ベッドに横たえられたかと思うと、足のあいだに彼の膝が割り入った。頭の真横に手を突かれ、やんわりと動きを拘束される。

 ──まずい。エリーシャはあわてて声を上げた。

 

「ま、待って! 大斎期ヴェリーキー・ポスト! 節制っ!」

 

 覆い被さる彼を必死に手で押し返すと、その手を大きな手でくるまれて、敷布の上に押さえつけられた。手から伝わってくるフランクの熱い体温に、鼓動が跳ねる。エリーシャを見下ろす水色の虹彩が、意地悪げに細められた。

 

乾酪チーズに燻製肉まで食べといて、何を今さら」

 

「そ、そうだけど……っ! こ、これは……さすがに……あっ」

 

 太腿(ふともも)を撫で上げられて、エリーシャはびくりと体を震わせた。

 

「神さまなんて信じてないくせに」

 

「~っ!」

 

 耳もとで囁かれて、エリーシャは唇を噛みしめた。

 耳朶じだに落ちる熱い吐息と、ゆるゆるとももう指の動きに、ぞくぞくと背筋が戦慄わななく。

 

「ま、待って。待って、ったら……っん」

 

「待たない」

 

「そ、そうじゃ……あ、なくて……っ、き、聞いてっ!」

 

 声を荒げると、フランクが顔を覗き込んできた。

 いつもは冷静な彼が、ほんのりと熱をもって()れた表情をしている。肌と吐息の熱さを間近に感じて、エリーシャはたまらなくなった。

 

「…………は、激しくしちゃ……だめ……。声が、となりに、聞こえちゃう……」

 

 顔が赤くなって、耳がへとりと垂れ下がっているのが自分でも分かる。細めた視界は不明瞭だ。早くも眼がうるんでしまっている。

 消え入りそうな声で懇願こんがんすると、フランクは虚を突かれたような顔をした。かと思うと突然吹き出して、くつくつと笑いだす。

 

「──するな、とは言わないんだ」

 

「う、うるさい……っ!」

 

 噛みつきながらも否定できない。本当はずっと──それこそ、彼が大斎期ヴェリーキー・ポストに来ると言ったときから、心のどこかで待ちわびていたのだから。

 フランクがこうして抱いてくれることを。

 

 食卓から漏れる蝋燭の火。そのほかには何のあかりもない、寝室のやわらかな宵闇。エリーシャを組み敷いたフランクの輪郭が、うっすらとほのかに浮かび上がっている。

 

「……いいよ」

 

 そう囁いて、彼は闇のなかで、唇を弧のかたちにしならせた。大きな手でくるんだ彼女のちいさな指先をすくい上げ、くちづける。

 

「お望み通り、やさしくしよう。それでいい? ──エリーシャ」

 

 低くあまく名前を呼ばれて、体の芯が打ち震える。

 

「……ずるい」

 

 エリーシャは涙目で彼を罵った。

 こんなに簡単に心を揺さぶられるなんて、そのうち頭をおかしくされてしまう。

 

 

≪ 2.対顔  |  4.夜伽(成人向) ≫

    |  5.宿願 ≫