3. 吐露
「ルーヴの花は、朝方の青い陽のもとで見るのが一番美しい」との村長の助言通り、花畑には明朝におもむくことになった。夫妻は今夜の夕餉や寝床の世話を申し出てくれたが、彼は大斎期を理由に、エリーシャの家で節制すると断った。
アーロンとマルタは実のところ外界の話に飢えていたらしく、その後もフランクが語るスヴェートの逸話を、あれこれと掘り下げては聞きたがった。会話を交わしているうちに陽は傾き、二人が邸を出た時には、薄紅色の夕暮れが垂れこめていた。
「ふう、さすがに疲れたな。お前の家はどっちだっけ」
秋薔薇の垣根を抜けて溜め息をついたフランクが、隣のエリーシャを見下ろす。
「こっち」
エリーシャが、ついと指差して先導する。彼の足音がついてくるのを聞きながら、村で一番大きなナナカマドの樹が見える曲り道を行く。
ナナカマドの紅葉は夕陽をあびて、煉瓦色に燃えさかっていた。積もる落ち葉を踏みしだくと、ときおり木の実が潰れる感覚が靴裏に届く。
──ふと、見慣れたすがたを目にして、エリーシャは立ち止まった。
「……キト」
目の前の、そばかす顔の少年の名を呼ぶ。年がそう違わないからか、最初から親しげにエリーシャに話しかけてくれた、めずらしい村人だ。
「あれ、エリーシャ。ちょうどよかった、今から家に行こうと思ってたんだ」
キトと呼ばれた少年は、にかりと笑って彼女に駆け寄った。手には布袋が提げられていて、彼はそれをおもむろにエリーシャに差し出して、袋の口を開いた。
あまり差のない背丈のふたりが、布袋のなかを覗き込む。エリーシャの蜂蜜色の髪と、キトの麦わら色の髪が、触れあうまでに近づく。
「さっき火焔菜の収穫をしたんだ。たくさん採れたから、お前にもやるよ」
彼の言葉通り、布袋には丸々とした赤い蕪が入っていた。エリーシャは彼から布袋を受け取って、頬をゆるめる。
「……ありがと。深紅の煮込み汁にする。おばさんにも、お礼を言っておいて」
「いいって、こないだ蒔蘿を貰ったしな。おかげでスープがうまかった」
キトがはにかむように微笑んだ。
睦まじいやりとりを交わしていた二人だったが、一瞬の空白ができたそのとき、キトはエリーシャのうしろに立つ人影に気付いた。
一瞬目を見開いたのち、じろじろとフランクを上から下までいぶかしげに眺める。眉をひそめて、キトはエリーシャに尋ねた。
「……誰?」
「あ……えと、旅をしてたときの仲間。フランク。それで、この子はわたしの家の隣に住んでる、キト」
「はじめまして、少年」
エリーシャの紹介ののち、フランクはキトに握手を求めて手を差し出した。しかし彼は笑みを浮かべているものの、薄く開いた眼でキトを見下ろしていて、妙な威圧感を漂わせている。キトもそれを察したのか、フランクを警戒するような眼で眺めた。拳を握ったまま、握手に応えようとしない。
「……気取ったやつ!」
吐き捨てるようにそう言って、キトはもと来た道を駆けだした。突然のことに驚いたエリーシャが「キト?」と呼びかけても、彼は振りむかなかった。
「どうしたんだろ。いつもはもっと、ちゃんとしてるのに。ゴミクズが、やなやつだって感づいたのかな」
「……へぇ」
「……なに、そのへぇって」
「別に。何でもないよ」
フランクは笑みを含んだままそう言って、あさっての方を向いた。
彼の「何でもない」は、そのほとんどが言葉と逆のことが多い。それでも経験上、しつこく聞いても答えてくれないことは分かっていたので、エリーシャはためいきをついた。
「火焔菜もって」
彼のみぞおちに勢いよく布袋を押しつける。フランクはたちまち眉をひそめた。
「お前、手ぶらだろ。僕は旅の荷があるのに──」
「うるさい。いっしゅくいっぱんのおんって言うでしょ」
有無を言わさず言葉を被せると、しぶしぶといった体で持ち手に手がかけられる。
そんなに重いものじゃないし、エリーシャでも無理なく運べるのだけれど、腹立たしさからの当てつけだ。言葉を多く持たず、上手く操れないエリーシャとは逆に、フランクは言葉をたくさん知っているのに、皮肉屋で本心を見せない。
「こっち」
ナナカマドの樹のむこうに建つ家々を指さして、エリーシャはさっさと歩きだす。一拍遅れて、枯れ葉を踏み分ける足音がついてくる。
軋む扉を開けると、日よけ布から漏れる飴色の明かりに、家財の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていた。エリーシャは慣れた足取りでなかに入り、机の上の燭台に火をつける。蝋燭にあかりが灯って、繭のようにやわらかく家のなかを照らした。
彼が背嚢を床に下ろして部屋を見渡すすがたを、落ち着かない気持ちのまま眺める。数ヶ月前にもフランクがこうして家を訪れたけれど、あの時と今とでは何もかもが違っていた。初めて彼がこの家に来たときは、こんな風に地に足がつかないような気持ちにはならなかったし、彼のことを〝きらい〟だと思い込んでいた。
「あの日よけ布」
フランクがおもむろに呟く。いつの間にか物思いに耽っていたエリーシャが、我に返って彼を見上げると、彼は寝室の窓を指差していた。
「前からあんな色だったか」
「……さいきん変えたの」
そんな細かなところまで覚えていたのかと、内心驚く。以前フランクが来たときに掛けていた日よけ布は、ずいぶんと陽に焼けて白茶けていたのだ。それに、つまずきかけた時につかもうとして、うっかり爪で布を引き裂いてしまっていた。
どうせ客人など来ないからと適当に繕って、そのままにしていたのだけれど──先日のスヴェート訪問から戻ってしばらく、エリーシャは行商人に頼んで布地を取り寄せた。雑事の合間に針仕事にいそしんで、何度も針で指を刺しながら、日よけ布に仕立てたのだ。
「ふぅん」
フランクが口の端に笑みを浮かべながら寝室に行って、布を撫でた。
「いい色だね」と彼が言葉を落とす。乳白の布越しにこぼれる残照が、彼の輪郭を淡く縁取る。褐色の膚に淡い光が落ちた。
そのすがたを見た瞬間、なんだかとても不純な気持ちが胸を突いた。
それをごまかすように「夕食つくるから」とエリーシャは言い残して、フランクから目を逸らし、ちいさな厨へ逃げこむ。
「ああ、もうそんな時間か。ならこれを使いなよ」
背嚢を置いたところに戻って、なにかごそごそと取り出したかと思うと、彼は乾酪と燻製肉の塊を差し出してきた。
エリーシャが目をしばたたく。目の前のものが見間違いではないことを悟ると、押し殺した批難の声を上げる。
「ちょっ……大斎期なのに!」
節制の期間とされる大斎期は、必要最低限の栄養のみを摂ることになっている。救い主に準じて食事は一日に一回のみとし、動物性の食べ物を忌避するのが、この国においての〝普通〟だった。
「僕には関係ない」
乾酪の包み紙を剥がして、ちぎったかけらを口に含みながら、フランクは平然と答える。
「なんだ、小娘はそういう信仰を持ってるのか」
まるでエリーシャの方がおかしいような口ぶりで聞く。
「む……村のみんながそうだから……わたしもそうしてる」
「へぇ、村人らに倣ってたのか。それはご苦労なことで。それじゃあこれは僕だけ食べるよ。もったいないし」
煙でいぶされた肉と、乳がこごった濃いにおいが、ここ数日野菜しか食べていなかったエリーシャの腑に突き刺さる。くぅ、とお腹が鳴いた。くちのなかに唾液が溜まる。
「た……」
「た?」
「食べる」
思わず飛び出たその言葉に、フランクは声を立てて笑った。
「好きにするといい」
彼はそう言って、燻製肉と欠けた乾酪を押しつける。
それらを受け取りながら、エリーシャは自分が信仰深い村人ら、しいては人間とは違う存在であることを、改めて思い知らされたような気持ちになった。霧がたちこめる崖にいた、名もなき種族の生き残り──フランクと同じように。
エリーシャは神を信じていない。人間の間では当たり前とされる信仰も習慣として無かったし、そもそもどうして目に見えないものを信じられるのか分からない。節食だって、さっき彼が言った通り、周囲に合わせていただけだ。
エリーシャはフランクをにらみつけて、彼のことを心のなかで「魔性」と罵った。
いつだって彼の存在は、エリーシャをたやすく揺さぶってやまない。
キトに貰った火焔菜で作った深紅の煮込み汁と、黒パン。それからフランクが持ってきた燻製肉を切って火で炙ったものと、乾酪。思いのほか豪勢になった食卓をかこんで、二人は夕餉を摂った。
ぽつり、ぽつりと言葉を落として、ゆっくりと会話を交わしていく。けっして賑やかな食事ではないけれど、夜に染みとおるようなやりとりが心地良かった。
食事を終えて、厨で調理器具や皿を洗い終わったエリーシャが居間に戻ると、卓の上には綺麗な箱が置かれていた。分厚い臙脂色の紙に蝋を引いて組み立てたもので、蓋がついている。
「──これ、なに?」
「ああ……土産」
「おみやげ?」
驚いて、向かいの席に腰掛けながらくり返す。フランクが決まりの悪そうな顔で視線を外した。
「……開けていい?」
尋ねると、彼は余所を向いたままうなずいたので、エリーシャはそっと蓋に手をかける。
箱のなかには一揃えの小さな靴が収まっていた。艶のある、赤い浅履きの靴だ。甲のところにはリボンがあしらわれており、縫い目が均一に揃っていることから、丁寧な仕事のものだと分かった。
「……きれい」
蝋燭のあかりを照り返す靴を見て、吐息とともに感嘆を落とす。
靴を手に取って眺めていると、フランクが席を立った。椅子に腰掛けたエリーシャに近付いて、足もとにしゃがみ込んだかと思うと、宙に浮いていたつま先を捕らえる。旅のときにも履いていた、くたびれて窮屈になっていた靴が脱がされた。
「ひゃっ!? ち、ちょっ……!」
批難の声を上げても、彼はまるで聞こえていないかのように、エリーシャの手から新しい靴を取りあげた。踵に指を添えて、静かに靴をあてがう。靴は吸いつくようにぴったりと、彼女の足を包んで──はくれなかった。
「……少し大きいな」
フランクの言う通り、靴とエリーシャの足とのあいだに隙間ができている。きちんと採寸してあつらえたのではないのだから、当然ともいえた。
彼は靴を履かせたまま、彼女のつま先を自らの腿の上に置いた。それから靴と踵に生じた隙間に指を入れる。
「ん……」
どれだけ空いているのか確かめるためだと分かっていても、普段触らない靭帯の際を指でなぞられるとくすぐったくて、背筋を撫で上げられたような震えが走る。
「す……すぐちょうどよくなる」
「そうだな」
「それに、詰めものをすれば、いまだって履ける」
「うん」
うなずきながら、フランクは箱のなかに入っていた革切れを小さく折りたたんで、靴の隙間に押し込んだ。
彼の腿の上に乗せていた踵をそっと上げる。靴は外れることなく、彼女の足の動きについてきた。
「……ぴったり」
エリーシャが小さく笑みをこぼす。
フランクが靴をいじっていた手もとから視線を上げた。片足を膝立ちにして床に屈んだ彼の目線は、椅子に腰かけた彼女よりも低かった。慣れない高低差の物珍しさから、彼の生えそろったまつげの縁を眺めていると、フランクはまた目を伏せて、靴を見る。
「恋人には靴を贈っちゃいけない、って教訓を知ってるか」
突然もたらされた話題に目をしばたたく。
「……知らない。なんで」
すぐにそう尋ねると、フランクは吐息を漏らすように笑んだ。
「ひとつは、大きさがぴったり合うことが稀だから。もうひとつは、靴を履いた恋人が、遠くに逃げてしまうって言い伝えがあるから」
話が飲みこめなくて、また数度またたく。卓の上で蜜蝋の炎が揺らめいて、壁に投射された二人の影が躍る。
「……わたしに、逃げろって言いたいの?」
「逃げる? 小娘が? ──まさか。その逆だよ。お前はこれを履いて、レギアの村からスヴェートに移るんだ」
エリーシャが目を見張る。
フランクが顔を上げた。彼の水色の双眸と、彼女の赤い瞳とが交わる。
「会議に出席する機会が増えるんだろう。ここから都城まで二日もかけて通い続けるのは無理だ。今すぐにとはいかないだろうけど──これを履いて、スヴェートにおいで」
彼のやわらかな声が耳を撫でた。
……フランクの物言いは、この上なくやさしいものだった。けれど彼の言葉を聞いたエリーシャの体のなかで、突如として強い嵐が巻き起こる。
「……おねえちゃんに頼まれたの?」
腑に渦巻くものが、知らず唇からこぼれ落ちた。
今度はフランクが目を見張る番だった。もし演技だとしたら役者なみ、と心の隅でもう一人の意地悪なエリーシャが囁く。
「なんでユーゼの名前が出てくるんだ」
彼の声が硬くなる。
それでも、一度自覚した気持ちから目を逸らすことはできなかった。エリーシャはたまらなくなって、声を荒げる。
「だって……だってそれは、おねえちゃんがずっとわたしに言おうとして、言わなかったことだもん!」
先日泊まったユーゼの家の寝床のなかで。
旧体制派との顔見せの会議が始まるまでの待ち時間で。
長い旅を経てスヴェートにたどりついたエリーシャを、出迎えてくれたあの時に──
ユーゼの瞳に逡巡がよぎるのを何度も見た。けれど結局ユーゼは何も言わなかった。ためらいがちに引き結ばれる唇。綺麗な白銀の眼が、伏せられたまつげのせいで暗く翳る。
そんな顔をさせたくなかった。けれど、エリーシャから移住の話を持ちかけることは、どうしてもできなかった。
「僕は何も聞いちゃいないさ。今の小娘の状態をいつまでも続けられないことくらい、少し考えれば誰にでも分かる。……何が気に食わないんだ。そんなにこの村から離れがたいのか?」
「……違う」
もちろん長年親しんだレギアの村を離れるのは名残惜しい。昼間に村長が言ったように、エリーシャは何年もかけてこの村になじんだ。それに、新体制派の基盤ができるまでは安全なところで暮らせるようにと、ユーゼがわざわざ手筈を整えてくれたことは、感謝してもしきれない。
「じゃあ何で──」
「こわい」
フランクの言葉をさえぎって本音を落とす。
見ないふりをしているうちに、大きくなってしまった感情。それに名前を与えた途端、黒くて冷たいものが身のうちに満ちて、胸を凍らせた。
初めは恐れなんてなかった。けれど小さなエリーシャが、大きなスヴェートの街にあらためて立ったとき──眩暈がした。人間だらけの都市を目のあたりにして、これから歩もうとする道行きの果てしなさを知って。
これまではユーゼの開いた道をゆき、ユーゼが用意した居場所で頑張ればよかった。でもスヴェートに移住するということは、本格的に異種族和解に取り組むということを意味している。今度は一人で道を開かなければならない。そう思うと足がすくんだ。
都城での会議で浴びせられた、旧体制派の人たちの罵倒や、蔑視のまなざしや、対話を拒否される絶望を思い出す。それは前にも味わったものだった。
人間の血が半分入っているという理由だけで、竜人族の群れから弾かれ、嬲られ、殺されかけた、あの記憶──
幼いころ、エリーシャは竜人族の群れから追い出され、人里であるラハノバに辿りついた。村人らは彼女に良くしてくれたが、そのラハノバも先の大戦で戦火にあって、彼女はまたひとりぼっちになった。
食べず、眠らず、自暴自棄になって、死の誘惑に身を任せかけていたとき、エリーシャの胸に希望の火を灯してくれたのは、ユーゼだ。
──〝簡単にはいかない問題だから、すぐにとはいかないけど。その時はエリーシャ、あなたに橋渡しをして欲しい〟
──〝だってあなたは、竜人族でも人間でもあるんだから〟
それは、竜人族と人間の諍いをなくすという夢。
……生まれて初めて、自分にも価値があるのだと思えた。ユーゼと夢のために生きていこうと決めて、絶望から這い上がった。
それなのに、いざ夢が近づいた今、ただ道行きに恐れをいだいてばかりいる。
どうしてこんなに意気地がないのだろう。情けなくて涙がこぼれた。
「こわいものから逃げようと、おねえちゃんにあまえて、答えを出さずにいる。そんなずるい自分が、だいきらい……!」
引き絞るように叫ぶ。嗚咽が沸きあがって、喉がひしゃげて上手く声が出ない。
「……おねえちゃんみたいになりたかった」
ぽつりと言葉と涙を落とす。
「強くて、迷いがなくて、芯がしっかりした、おねえちゃんみたいにひとに、わたしもなりたかった」
初めてユーゼに会ったとき、成長したらこうなるのだと憧れた。
あれからずいぶん経って、エリーシャは大きくなったのに、心はいつまでも弱いままだ。
炎がゆらめく音すら響く静寂が、場を支配する。
黙って話を聞いていたフランクは、怒るでも憐れむでも蔑むでもなく、ただ表情のない眼でエリーシャを見つめていた。
床板が軋む音が響く。フランクは立ち上がって、彼女を見下ろした。
「お前はユーゼにはなれないよ」
静かに彼がつぶやく。
「お前はユーゼじゃない。お前は簡単に泣くくせに、負けず嫌いで諦めが悪い。一度決めたら意見を曲げないくせに臆病で、考えてることがすぐ顔に出る」
遠慮のない彼の物言いに、エリーシャはぐっと息を詰める。うわべの慰めを口にしないところが彼の美点だと分かっていても、傷ついた心に鋭い言葉が突き刺さる。
「……それがお前なんじゃないのか」
諭すような囁きに、エリーシャは顔を上げた。
「スキアが去ったとき、自分が正しいのか分からなくなったユーゼに、お前は自分の意見を叩きつけた。ふたりから、ひとりとひとりになっただけだと、そう言った。ユーゼにはなかった考えだ。それは、お前がお前だからできたことじゃないのか」
エリーシャが眼を見開く。
彼は苛立ったように、なおも言葉を連ねる。
「だいたい何だ、ユーゼが強くて迷いがないって? 弟ひとりに意見を拒絶されただけで、手が震えて剣のひとつも持てなくなった彼女が?」
はっ、と鼻で笑って、エリーシャを見る。
「迷ってたさ。迷いながらも前に進んでただけだ。小娘やレニの言葉を聞いて、自分を叱咤しながらね。長く一緒にいるのに、お前の勝手な理想をユーゼに押しつけるな」
彼の台詞が胸を射抜く。凍りついていたはずの心に、熱が灯る。
──そうだ。あの時ユーゼも迷っていた。どうして忘れていたんだろう。あんなに彼女の支えになりたいと願ったのに。
「……迷っていいの?」
長い沈黙のあと、ぽつりと尋ねて彼の眼を見ると、しかめ面のフランクが目を細めた。
「むしろ迷わないやつの方が気持ち悪い」
「いろんなことがこわいままで、いいのかな」
「こわがりは今にはじまったことじゃないだろ? そのたびにユーゼにあまえて、彼女は嬉々として世話を焼いてた。そうやって励まされて前に進んでたんじゃないのか、お前は」
次から次へと軽快に答えを返される。胸のなかにあたたかさが広がって、凝っていた冷たくて黒いものが、溶け落ちていく。
「……ばか」
なじる言葉と一緒に笑みが漏れた。
彼の返答のひとつひとつが、そのままのエリーシャでいいのだと認めてくれている。
フランクの手が伸びて、エリーシャのつむじに重みが乗った。彼は彼女の頭をゆっくりと撫でる。髪の上をすべるあたたかさが心地よくて、彼女は詰めていた息をほうっと解いた。濡れた目じりを細めて、彼のぬくもりといたわりを享受する。
突然強くはなれない。急には変われない。とても情けないことのように思うけれど、それはどうしようもない本当のことだ。だって今のエリーシャは、今までの甘えん坊で寂しがり屋のエリーシャと、いつだって地続きなのだから。
これから成すことの大きさに足がすくんでも、竜人族や人間たち──ことに旧体制派の人たちに恐れをいだいても、その感情を消すことは今のエリーシャにはできそうにない。そのことにずいぶん悩んで自分を嫌いになりかけたけれど、フランクが言うように、そのこわさを抱えたままでもいいのかもしれない。あの頃のユーゼがそうであったように。
それに、一人で抱え込んで自分を追い詰めていたけれど──困ったときに声を上げれば、助けてくれるひとは周りにいるのだ。ユーゼやスキアやレニ……それにきっと、フランクも。
「──それで」
しばらくして彼が落としたつぶやきに、エリーシャの思考が現実へと戻った。
顏を上げてフランクの方を見ようとしたが、なぜか頭に乗った手に力を入れられて、それを邪魔された。一呼吸おいて、彼が言葉を続ける。
「……さっき僕が言ったことへの反応は?」
きょとんとして目をしばたたく。
いつもよりどこか張りのない彼の声に、思わず小首をかしげる。
「……さっき、って?」
疑問を返すと、彼のまわりの空気があきらかに冷え固まった。
エリーシャはなんとか頭を上向かせようと、彼の手のひらの下でもがきながら、さきほどのやりとりを一生懸命思い出す。何か、答えを返さなければならないような台詞があっただろうか。
「──もういい」
「え……? ひあっ!?」
すっとんきょうな声を上げて、エリーシャは足をばたつかせた。突然フランクが彼女を抱き上げたのだ。履かせてもらった新しい靴が脱げて、床の上に転がる。
「あ、靴……! お、下ろして!」
「ああ、ちょうどいいじゃないか。脱がせる手間がはぶけた」
「脱が……っ!?」
顔を真っ赤にしてぱくぱく口を開け閉めする。
「ち、ちょっと待って、なんでいきなりそんな……っ」
「いきなり? ……ああ、お前はそう思うだろうね。さっきの話も、何のことか分からなかったみたいだし」
「だ、だから、ちゃんと説明して!」
彼女の抗議に構わずに、彼はさっさとエリーシャを寝室へ連れて行った。
いつもは軽いエリーシャだけを乗せてきた寝台が、彼女を抱えたフランクに乗られて、ギシリと軋む。そのまま寝台に横たえられたかと思うと、足のあいだに彼の膝が割り入った。頭の真横に手を突かれ、やんわりと動きを拘束される。
──まずい。エリーシャはあわてて声を上げた。
「ま、待って! 大斎期! 節制っ!」
覆い被さる彼を必死に手で押し返すと、その手を大きな手でくるまれて、敷布の上に押さえつけられた。手から伝わってくるフランクの熱い体温に、鼓動が跳ねる。エリーシャを見下ろす水色の虹彩が、意地悪げに細められた。
「乾酪に燻製肉まで食べといて、何を今さら」
「そ、そうだけど……っ! こ、これは……さすがに……あっ」
太腿を撫で上げられて、エリーシャはびくりと体を震わせた。
「神さまなんて信じてないくせに」
「~っ!」
耳もとで囁かれて、エリーシャは唇を噛みしめた。
耳朶に落ちる熱い吐息と、ゆるゆると腿を這う指の動きに、ぞくぞくと背筋が戦慄く。
「ま、待って。待って、ったら……っん」
「待たない」
「そ、そうじゃ……あ、なくて……っ、き、聞いてっ!」
声を荒げると、フランクが顔を覗き込んできた。
いつもは冷静な彼が、ほんのりと熱をもって焦れた表情をしている。肌と吐息の熱さを間近に感じて、エリーシャはたまらなくなった。
「…………は、激しくしちゃ……だめ……。声が、となりに、聞こえちゃう……」
顔が赤くなって、耳がへとりと垂れ下がっているのが自分でも分かる。細めた視界は不明瞭だ。早くも眼がうるんでしまっている。
消え入りそうな声で懇願すると、フランクは虚を突かれたような顔をした。かと思うと突然吹き出して、くつくつと笑いだす。
「──するな、とは言わないんだ」
「う、うるさい……っ!」
噛みつきながらも否定できない。本当はずっと──それこそ、彼が大斎期に来ると言ったときから、心のどこかで待ちわびていたのだから。
フランクがこうして抱いてくれることを。
食卓から漏れる蝋燭の火。そのほかには何のあかりもない、寝室のやわらかな宵闇。エリーシャを組み敷いたフランクの輪郭が、うっすらと仄かに浮かび上がっている。
「……いいよ」
そう囁いて、彼は闇のなかで、唇を弧のかたちにしならせた。大きな手でくるんだ彼女のちいさな指先をすくい上げ、くちづける。
「お望み通り、やさしくしよう。それでいい? ──エリーシャ」
低くあまく名前を呼ばれて、体の芯が打ち震える。
「……ずるい」
エリーシャは涙目で彼を罵った。
こんなに簡単に心を揺さぶられるなんて、そのうち頭をおかしくされてしまう。