5. 宿願
明るい陽射しをまなうらに感じて、まぶたをゆっくりと開く。
まばたく瞳に光のかけらが映った。白い敷布の上に、波打って広がった蜂蜜色の髪の上に、ちらちらとやわらかな陽だまりが躍っている。
エリーシャは小鳥の囀りを聞きながら、ゆうべ日よけ布を引き忘れただろうかと、ぼんやりと思った。
「──ああ、やっと起きた」
とつぜん耳に飛び込んできたその声にびっくりして、飛び起きる。
上半身を起こしただけなのに、身体が重だるく虚脱して、腰が軋む。痛みに顔をしかめながら声のした方に視線をやると、フランクが同じ寝台の上、エリーシャの隣でくつろいでいた。彼が開けたのだろう、日除け布が払われた乳白色の硝子窓から、銀色の朝日が燦々と降り注いでいる。
その光にほのめく、フランクの裸の上半身──うすい筋肉のおうとつに合わせて、褐色の肌に陰影ができているさまが目に飛び込んできて、エリーシャは絶句した。
「な……な……」
ふるふると震えて、顔が真っ赤になる。
ふと自分も彼と同じように、掛布から上半身が出ていることを思い出す。見下ろした自身の身体が一糸まとわぬものであることに気付いて、エリーシャは「ひゃうっ」と小さく鳴いて、あわてて布団に潜り込んでまるくなった。
「おい、二度寝するな。体を拭きたいんだ、清拭布と水はどこだい」
両手でつかんでぴったりと閉じた布団を引っ張られる。布団をこじ開けようとするフランクに必死で抵抗しながら、自分の下腹部がべったりと濡れていることに気付いて、エリーシャは羞恥で窒息しそうになった。
突然手が止まった。諦めてくれたのかとほっと息をついた矢先、ギシリと寝台が軋む音がして、彼の手がエリーシャのすぐ側の敷布に突き立てられる。
「──それとも、誘ってる? まだしたい?」
身の危険を感じて、がばりと布団をはね起こして「清拭布はそこ、水は厨の隣にある洗面室に汲み置きがあるっ!」とあわてて指差しながら説明する。
「はいはい。最初から素直にそう言えばよかったんだ」
紅潮したエリーシャを置いて、フランクは腰に掛布を巻いて寝台から下り、すたすたと淀みない動きで寝室を出て行った。
彼の背で遊ぶ、ほつれた編み髪をぼうぜんと見送る。まるはだかのまま寝台に残されたエリーシャは、はっと我に返って、ぎくしゃくとした動きで敷布を剥いで、それにくるまり、開いたままだった日よけ布を急いで引きなおした。
身を清めて軽い朝食をとり、二人はエリーシャの家をあとにする。
今日は雲ひとつない快晴だ。きめこまやかで色素の薄い青空が広がっており、いかにも晩秋といったようすで、初雪が近いことを予感させる。
昨日と同じように村長の家に向かう。
秋薔薇の群れを抜けて、フランクが叩き金を玄関扉に打ちつけてほどなく、薄く扉が開いて、アーロンが顔をのぞかせる。エリーシャがたどたどしい口調でルーヴの花畑に行くことを告げると、彼はただ黙って彼女の言葉を首肯した。
ふと、アーロンの視線がエリーシャのつま先に向けられる。ぐっと身体が硬くなるのが彼女自身にも分かった。
エリーシャは、フランクがくれた新しい靴を履いている。
エリーシャは信仰を持たない。それを改めて主張する必要はないけれど、周りに合わせて同じふりをするという習慣を、少しずつ変えていきたかった。
たとえ大斎期中に新しいものを下ろすのは不謹慎だと批難されても、その時に説明を厭わず、分かってもらえない可能性を恐れず、きちんと自分の考えを言えるようになりたかった。それは信仰のことだけではなくて──たとえば種族や民族の差異、そのひとつひとつとも、そういう風に向き合っていけたらいい。
昨日のフランクとのやりとりで、そう思った。
「……フランクさん、だったな」
アーロンが重い口を開く。
もしかすると自分ではなくてフランクが責められるのかと、冷たい予感を覚えたエリーシャが、不安げな表情で村長を見上げる。アーロンは表情を固めたままつぶやいた。
「実は、マルタは私より十も年下なんだ」
「は」
フランクの唇から間の抜けた声が漏れた。靴の件を責められると思っていたエリーシャも、突然の話題にぽかんと口を開ける。
「結婚を決めたときは、まだ若かったから批難もされたが……ある程度年を取ってしまえば、そんなことは些細なことだ。そう思わないか」
アーロンがフランクを見て、にやりと笑った。
話題を振られたフランクは、何か言おうとして、やめて──苦虫を噛み潰したような顔になる。しばらくして彼は「失礼します」とだけ言い残して、アーロンに背を向けた。
フランクがそのまま邸の敷地から出ていく。あわててあとを追おうとすると「エリーシャ」とアーロンに呼び止められた。
「その靴は君の瞳と同じ色だな。よく似合っている」
やさしい声でそう言われて、ふわりと胸がほどけた。
……アーロンは知っていたのだ。竜人族が人間と違って信仰を持たないことも、エリーシャが村人らに合わせていたことも、きっと、全部。その上で、こうして新しい靴を貰ったことや、エリーシャがそれを履いていることを否定せず、似合っていると言ってくれた。
エリーシャはきゅっと唇を噛んで彼を見上げた。きっと手持ちの言葉では、この心情は言い表せないだろう。けれど、あたたかなものをくれたことに対して、アーロンに感謝の気持ちを伝えたかった。
「……ありがとう」
エリーシャは心を込めて、彼にぺこんと頭を下げた。
顔を上げて、アーロンに微笑み、踵を返し、フランクのもとへ駆けていく。
「……ねえ」
うしろから呼びかけても、フランクは振り向かない。彼が道なき道を歩いているせいで、一足ごとに積もった落ち葉が躍り、がさがさと鳴る。
小走りになって回り込むと、とても不機嫌そうな顔をした彼ににらまれた。
「眉間にしわ」
「うるさいな」
指摘すると、ふいと視線を逸らされた。
それ以上フランクは何も言わず、また大股で歩きはじめて、彼女の前を通り過ぎる。
エリーシャがあとを追う。腰の軋みのせいでなかなか速く走れない。縮まない距離に内心焦っていると、ふと彼の歩みが止まった。
「……早く来い、ちみっこ。案内するんだろ」
振り返って、ぶっきらぼうにそう告げて、足を止めたまま彼女を待つすがたに、エリーシャはぱちぱちと眼をまたたいた。それから唇をゆるめて、フランクに大きくうなずく。そのあとで「ちみっこじゃない」と反論する。
やっと彼に追いついた。今度は置いて行かれないように、腕を伸ばして彼の上着のすそをきゅっと握る。それを見たフランクが、ふいに吐息のような笑みを漏らした。
「ちみっこじゃなけりゃお子様か。迷子になるなよ」
「それはこっちのせりふ」
皮肉な言葉とはうらはらに、彼の声がやわらかいことが何よりも嬉しかった。
今度は歩幅を狭めて歩きはじめたフランクの隣に、エリーシャが並ぶ。相変わらず体に重さが残っていて動きはぎこちなくなるけれど、新しい靴のおかげで、つま先が驚くほど自由に動かせた。
今まで気づいてなかった。
フランクが気づかせてくれた。
ずいぶんと窮屈な枠組みに、自分を押しこんでいたことを。
ルーヴの花畑は、村から離れた荒れ地に広がっている。毎日世話に行くときと同じ道をたどりながら、うしろにフランクがいる普段と違う状況を、エリーシャは不思議に思う。
二人は青空の下を歩き、狭い岩肌の間を抜け、開けた場所にたどり着いた。
「……へぇ」
フランクが感嘆の声を漏らす。
切り立った岩山に守られるように、花畑が広がっている。硬質であるがゆえに鏡のような花びらを持つこの花は、月明かりの下では銀色に輝くが、朝の光のもとでは淡い勿忘草のように発色する。
一面、空色に染められた大地。それは晩秋の空の合わせ鏡のようだった。
風が吹くたびに花がそよぐ。そのたびに鉄球のように重いしべが硬質な花びらを打ち、小さな鈴の音を鳴らす。その音は幾重にもかさなりあって、教会で耳にする組鐘に似た旋律を奏でた。
風で花が揺れるたびに、耳のなかに祝福の音色が落ちる。それと同時に花びらとしべがこすれあって、甘く清涼な、百合にも似た花の香りが生まれて、鼻孔をくすぐる。
「夜の花畑も綺麗だったけど……なるほど、朝がいっとう綺麗だというのに納得がいくね」
長い編み髪を風になびかせて、フランクが広い景色を見渡しながらつぶやいた。彼の隣で、エリーシャもこくんとうなずく。
「わたしも見れてよかった」
「ん? お前はいつでも見れるじゃないか」
「ばか」
「……なんで罵倒されてるのかな、僕は」
「やっぱり、ばか。ゴミクズと一緒に見れてよかった、って意味だよ」
顔が熱くなるのを感じながら、何気なさをよそおって彼に告げる。あえてフランクの方を見ないようにして、花畑を眺めつづけた。
エリーシャは風に蜂蜜色の髪を揺らしながら「それに」と言葉を継ぐ。
「……あと何回、ルーヴの花畑を眺められるか分からないから」
眼を細めて空色の大地を望む。
この景色を、あますことなく焼きつけておきたかった。
花畑のなかで、小さなエリーシャが手を傷だらけにして花を摘んでいる。あれは村に越して間もない、まだルーヴの花摘みを覚えたばかりのころ。その隣には泣きべそをかいて膝を抱えるエリーシャがいる。きつい日差しにくらくらしながら花摘みに精を出す彼女、キトやその母親とぎこちなく言葉を交わす彼女──
過去のまぼろしが浮かんでは、陽炎のように掻き消える。
「──フランク、わたし……」
眩惑から眼を引きはがし、隣に立つ彼を見上げる。フランクは黙って視線を下げてエリーシャを見つめ、彼女の言葉をじっと待っている。
こくん、と唾を飲みこむ音が体のなかで大きく響く。「わたしね」と腹に力を入れて声を出す。
「……わたし、スヴェートに住もうと思う。いますぐには、無理だけど……」
恐れはまだ、胸にある。スヴェートに引っ越すということは、長い時間をかけて親しんだレギアの村を離れるということだ。それはやっと手に入れた安寧を、自分から捨てるということでもある。
先のことは何もわからない。スヴェートに移住して、もう嫌だと泣きじゃくることも何度もあるだろう。……でも、今までだってそうだった。幼くて、選択肢が他になかったから気付かなかったけれど。
大人になって知恵がつくということは、もしかしたらさまざまな経験を経て、前もって自覚できるこわいものが増えるということなのかもしれない。それでも、恐れを胸に抱いたまま、一歩踏み出したかった。
「これから先いろんなことがあって、どうせ泣くなら……夢のためがいい」
異種族和解という夢を叶えたい。
もうエリーシャのような悲しい思いをする子どもがいない、世の中にしたい。
「……うん」
フランクは短い肯定を落とした。その口もとには柔和な笑みがある。
エリーシャには、それだけで十分だった。
しばらくして彼女は、もじもじと落ち着きなく目線を泳がせる。夢だなんて大それたことを口にしたのに、彼がからかったりせずに受け入れてくれたので、急に気恥ずかしくなったのだ。
「……そ……それでね……すこしずつ、できることから始めようと思う……。お家を探すところから。おねえちゃんにも聞いてみるつもりだけど、フランクもスヴェートで良さそうなお家があったら、わたしに教えて」
そう言ってフランクを見上げると、彼の表情が一変していた。理解不能なものを見たような、あきれ返ったような、しかめ顔。彼のまわりの空気があきらかに冷たい。
──何が気に入らないんだろう。エリーシャは戸惑った。
そういえばゆうべも、こんなことがあったような……。
フランクがおおげさにためいきをついた。顔に手をあてて、こめかみまで揉んでいる。
「……きのうから、なんなの」
さすがにムッとして低い声が出る。
彼はのろのろと顔から手を外して、エリーシャを虫を見るような目で見下した。
「──僕は昨日、なんて言った?」
「え……? んと……〝お前はユーゼにはなれない〟?」
「違う。それよりもっと前」
「……燻製肉でも乾酪でも、食べたいなら〝好きにするといい〟?」
「お前、正解をわざと避けてるんじゃないだろうな?」
言いたいことがまったく分からない。
最初はフランクの不機嫌なようすに戸惑ったけれど、なんだか馬鹿にされているようで、だんだん腹が立ってくる。
「……わざとじゃない。本当にわかんない」
彼女の不満を聞いて、フランクがまた盛大にためいきをついた。
齧ってやろうか、と半目で彼を眺めながらエリーシャは思う。こんなことなら、ゆうべ力まかせに思い切り噛んで、肩を砕いてやればよかった。
「──〝スヴェートにおいで〟」
「……え?」
彼の唇から漏れた台詞に、エリーシャは思わず問い返す。
「今すぐにとはいかないだろうけど、これを履いてスヴェートにおいで。僕はそう言ったんだけど」
「え……あ、うん」
確かに彼はそう言った。靴を履かせてくれたあとで。
ユーゼに頼まれたのかと思って心に嵐が巻き起こったけれど、それは誰に頼まれたのでもない、フランクの思いだったと、あとで知った。
突然、じろりと彼ににらまれる。
「──来いと誘うということは、僕の方で受け入れるつもりがあると考えたりしないのか、お前は」
エリーシャはぽかんと口を開けた。
フランクの方で受け入れる。それはつまり──
「……僕の家においで。小娘ひとりぶんくらいの部屋なら、空いてるから」
やわらかな声が耳を撫でた。
……これは都合のいい夢じゃないだろうか?
にぎりこんだ手のひらに爪を立ててみる。ちゃんと痛い。驚きのあまり現実味の薄くなった、まっさらな頭の底の方から、じわじわと喜びがこみあげてくる。
エリーシャは彼を見上げて、大きく息を継いだ。
嬉しい、住みたい。
……そう口にしようとした途端、何かに後ろ髪を引かれた。
──いっしょに暮らして、うまくいかなかったら?
耳に暗いつぶやきが落ちる。
もうひとりのエリーシャがうしろから彼女を絡めとり、ひそりと不安を囁いたのだ。
──もし飽きられたらどうするの?
まぼろしが黒い疑念を口にするたびに、胸がにごっていく。
(……そんなことにならないもん)
エリーシャは心のなかで必死で反論した。けれど胸に落ちた黒いしみは、意志に反してどんどん心に広がっていく。
レギアの村娘らがフランクを見て、あまい囁きを交わしていたことを思い出す。他のひとから見ても、彼は魅力的に映るのだろう。ましてやスヴェートという大きな都市で、フランクは酒場を経営している。大人の女のひととの出会いも多く、彼は引く手数多なのではないだろうか。
本当は、物珍しさからエリーシャを選んだだけで……。そうでなければ、こんな偏屈で面倒な子どもと、大人の彼が一緒に暮らそうと思う理由が分からない。
(フランクを信じたいのに)
信じられないのは、劣等感だらけの自分だ。
エリーシャは胸が苦しくなって、ぎゅっと眼をつぶった。
その時だ。広く渡る風が、花畑を撫ぜたのは。
ルーヴの花が青い波のようにそよめく。小さな鐘の音がいくつも沸き立ち、折り重なってひとつの音色になる。清廉な旋律に打たれて、エリーシャははっと眼を見開いた。
──その日を摘め。
──明日が来るなど、あてにはできないから。
耳のなかでひとつの詩句がよみがえる。初めての観劇で、今と同じように激しい音色が響いたのちに、主人公が己を鼓舞するために口にしていた言葉だ。
急に視界が明瞭になった気がして、うつむいていた顔を上げる。すると、目の前でエリーシャの返事をじっと待っているフランクのすがたが眼に入った。普段は何かにつけて彼女をからかっている彼が、今回に限って何も言ってこない。感情の読めない顔で、ただエリーシャに視線を投げている。
……どうしてフランクは、あんなにまわりくどい言い方をしたのだろう?
水をたたえたような眼を見ているうちに、ふとエリーシャの胸に疑問が湧いた。
(照れくさかったから?)
普段の彼を見る限り、それが一番しっくりくる答えのはずなのに──エリーシャはその推測を空々しく感じてしまう。だって最後にフランクはあんなにはっきりと、僕の家においでと言ってくれた。
真意を読み取ろうと彼の瞳をじっと見る。水色の虹彩のなかに小さなエリーシャが映っている。そのうしろで朝の日差しが躍り、眼に陰影を与えている。まだたきするたびに揺れる光のかけらを眺めているうちに、ひとつの憶測が浮かんだ。
(──フランクも、こわいと思ってる?)
まさか。大人の彼が?
そう感じたのに、思いとはうらはらに、その考えは大きく身のうちに響いた。
──自分の気持ちに手いっぱいで、フランクの気持ちなんて考えたこともなかった。
でも、一緒に暮らすこと、今の関係が変わっていくこと、エリーシャに心を傾けること……その選択は、彼にとって今までの自分を脅かすものではないだろうか。
それでもフランクはエリーシャに、ともに暮らそうと言ってくれた。誰かと暮らすということは、不自由を受け入れるということなのに。長年の旅で得た栄誉と自由を天秤にかけて、栄誉を軽々しく捨てるほど、彼は自由に重きを置いていたのに──
そのことに気付いた途端、感情があふれかえった。胸が熱くなって、何か考えるより先に、体が動く。
「……っ!?」
フランクが声にならない声を上げた。エリーシャが土を蹴って、彼の胸のなかに飛び込んだのだ。なんとか踏みとどまった彼が文句を言うより先に、彼女はちいさな唇で、噛みつくように彼の口をふさいだ。
フランクが戸惑う気配が伝わるけれど、構いはしない。
思い知ってほしい。フランクがエリーシャと一緒に暮らすと決めてくれたことを、どれだけ嬉しく感じたのか。
「……せんせんふこく」
唇を離して、首に抱きついて、彼の耳に囁きを落とす。
嬉しいと同時に、悔しいとも思った。エリーシャが自分のことで悩んでいるあいだに、フランクが彼女を受け入れるために変わろうとしていたことが。
エリーシャだって負けたくない。おそれに立ち向かって、夢を叶えて、もっと素敵なひとになって、今以上に彼を夢中にさせたい。
フランクは呆然としていたけれど、エリーシャの宣戦布告を耳にして──破顔した。いつもと違う邪気のない表情で、くつくつと声を立てて笑い、今度は挑発的な笑みを彼女に向ける。
「上等だ」
ちいさな体を支えている腕に力がこもる。大きな手のひらで頭を包まれたかと思うと、今度はフランクから深く口づけられた。
大嫌いだった男。けれどいつの間にか、大好きになっていた男。もし彼がエリーシャと同じように、これからの二人の関係に、不安を抱いているのなら──
(そんなもの、わたしが吹き飛ばしてやる)
すき、という気持ちがあふれて、胸のなかを満たしていく。憂虞を、不安を、負の感情を巻き込んで、飲みこんでしまうくらいの強さで。
──どんな未来が待っているのだとしても。
今しか摘めない花だから、後悔のないように。
秋の終わりを告げる風が吹く。
ルーヴの花が空色の波を生んで、清らな音色を一斉に奏でた。
〈了〉